「釘子戸」という、土地開発の立ち退きに抗(あらが)う民家を指す中国語があるそうだ。この頑固な姿勢に倣うとユーモラスに宣言するのが、思索の書『何もしない』(ジェニー・オデル、竹内要江訳、早川書房)である。
原書副題は「アテンション・エコノミーに抵抗して」。聞きなれないカタカナ語だが、ネットのSNSにおいて発信内容の質や重要性ではなく注目度(「いいね!」数など)で価値が決まる経済概念のことだ。
ネット空間には拡散速度が高い発信ほどお金になる構造があり、即時反応させるデザインになっている。こうした「速い」情報消費やアテンション・エコノミーに抗うと宣言する紙の雑誌「モノノメ」(宇野常寛責任編集)が先月創刊されたのも、早逝(そうせい)の米国作家D・F・ウォレスによる今世紀初頭の大学卒業式でのスピーチ『これは水です』(阿部重夫訳、田畑書店)が増刷されているのも、偶然ではないだろう。ネットの速くて強い言葉に煽(あお)られることへの倦厭(けんえん)感が形をとりだしている。ウォレスが説くのは一つに、頭に刷りこまれたものを問い直すことだ。
そうした主体的な思考を取り戻すには、自然回帰や、哲学・文学に触れることは有用だとオデルは言い、ディオゲネス、エミリー・ディキンソン、アーレントなどの言葉を縦横に引く。面白いのはメルヴィル「代書人バートルビー」の例だ。主人公は職場で何を頼まれても、「しないほうがよろしいのです」と答えて、拒絶と受諾の谷間に上司を落としこみ、それでいて仕事を辞めるでもない。こうしたイエス・ノーの2択ではない「第三の空間」で考え続ける潜勢力をオデルは強調する。
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今年のノーベル文学賞ほどアテンション・エコノミーから縁遠いものもなかったろう。アブドゥルラザク・グルナはザンジバル島(現タンザニア)に生まれ、18歳で革命難民となって渡英したアフリカ系イギリス作家だ。欧米の作家で大きな文学賞の受賞歴なく同賞を授与された例は、今世紀ではごく稀(まれ)である。
発表後の質疑応答で、記者が「近年、難民問題で深刻な事態に直面しているヨーロッパからの受賞ですが」と前置きし、そうした情勢が選考に影響したかと遠回しに尋ねた。これに主催側は、作品を長年読みこんできた結果であり、政治面からの直接的影響はないと言下に否定した。
昨年の米国詩人ルイーズ・グリュックへの授賞も、作品の本質をつきつめた結果だろう。平易な語彙(ごい)で日常を綴(つづ)るその詩を初めて読んだ時、私は戦慄(せんりつ)した。夫婦が浜辺に黙座するうち、潮の満ち引きのまにまに愛憎が去来したり、少女が列車に乗りこむほんの一齣(ひとこま)に、女性の一生が照射されたりする。受賞を機に『野生のアイリス』(KADOKAWA)が邦訳されたのは喜ばしい。訳者は米国在住の詩人、野中美峰だ。
草花溢(あふ)れる庭を舞台にした本詩集は、グリュックが「二年間一篇(いっぺん)の詩も書けなかった、詩人として長く辛(つら)い沈黙の後にやってきた」と訳者はいう。表題作は「苦しみの果てに/扉があった」と始まる。
自然との、神との、対話。あるとき神は怒っているようだ。「わたしはあらゆる贈り物をした、/春の朝の青、/お前たちがその使い方を知らなかった時間――」。またあるときは、クローバーから抗議があり、朝顔が現(うつ)し世に生きる人間の罪と苦しみを代弁するようにも見える。文学は即効薬ではない。愛と訣別(けつべつ)、失望と希望、死と再生をめぐる、遅効性の言葉がここにはある。
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今月刮目(かつもく)すべき日本文学は、川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(河出書房新社)だろう。表題の人物はモダニズム期に生まれ、1970年代まで活躍した革新的な同性愛の作家。本書は彼にまつわる回想録にして擬態翻訳書である。
米国にはThe Great American Novel(GAN=偉大なるアメリカ小説)という概念があるが、ジュリアンの宿敵は「大文字のアメリカ」を文学に書くと嘯(うそぶ)き、こてんぱんにされる。ヘミングウェイ、フィッツジェラルドら異性愛の白人男性を主流とする米国文学界を華麗に挑発するのが本書だ。表舞台に出てくるのは、カポーティ、バロウズ、本作の裏主役ゴア・ヴィダルら異色の作家たち。本作を3重4重に複層化するのが、創作の共作/共犯関係だ。「作者」とは誰のことか?
川本は第3の共謀者として1行ごとに巧緻(こうち)な仕掛けを施し、幻の文学史を現前させる。破格のデビュー小説だ。=朝日新聞2021年10月27日掲載