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旅する本たち 澤田瞳子

 少し前から欲しいと思いつつ、手を出し難い品がある。それは大好きな先輩小説家さんのサイン本だ。

 私はもともと小説執筆より読書の方が好きで、多くの物語に憧れ続け、遂(つい)に今の仕事に就いてしまった。そのため十代の頃から大ファンの作家さんのサイン本を店頭で見かけると、すでに同じ書籍を持っていてもつい手が伸びかけるが――いや、待て。今の私は、仮にも出版関係者。ならば同じ業界の人間として、ここは多くの読者さんの手にサイン本が渡るよう、ぐっと我慢せねば。

 毎回そう言い聞かせて泣く泣くお店を去るだけに、自著にサインを求められる立場になってもなお、読者としての気持ちがよく分かる。ただ残念ながらサイン本は関東を中心とする大都市圏の書店に並ぶ例が多く、地方の小さなお店にはなかなか届かない。どこに住んでいようとも、好きな作家に対する読者の思いは変わらぬにもかかわらず、だ。

 その事実にもやもやしていた矢先、京都に本店を置く大垣書店さんと興味深い企画をご一緒した。題して、「旅するサイン本」。自社サイトをお持ちの利点を生かし、店頭・オンライン上双方で直筆サイン本の受注を受ける企画だ。少々送料がかかってしまうものの、これなら全国に等しくサイン本をお届けできる。しかもご希望のお名前入りの特典付きだ。

 私のサイン本の受注はすでに終わったが、大垣書店さんは今後も順次、他の作家さんのサイン本を全国に送り出すご予定という。もし中学生の私がこんな企画を知ったなら、大喜びして注文ボタンを押しただろう。そう思うと、まるで旅立つ本たちが本ばかり読んでいた自分の少女時代と現在をつなぐようで胸が躍る。

 まだ遠方には行きづらい時代とはいえ、思えば新型コロナの流行開始時から今まで、本はそんな軛(くびき)を逃れて、出版社から書店、読者さんの元へと全国を旅している。そんな軽やかな本たちを少々うらやみながら、私は私のサイン本たちに行ってらっしゃいと呟(つぶや)くのである。=朝日新聞2021年11月17日掲載