好き嫌いが真っ二つに割れる人
ネットニュースを何気なく眺めていたら、強烈な本のタイトルが目に飛び込んできました。その名も『嫌われた監督』。中日ドラゴンズを日本一に導いた異端の監督・落合博満さんが闘い続けた、8年間の軌跡を、スポーツ新聞の番記者だった鈴木忠平さんが、つまびらかに、鮮やかに書き留めています。
野球ファンならば、いや日本人で知らない方はいないのでは?
中日ドラゴンズでは監督として8年間、ペナントレースではずっとAクラス。なおかつ4回リーグ優勝。名将と呼べる成績を残しています。いったい、どんなモノのとらえ方、考え方を持てば、輝かしい功績に結びつくのだろう。落合さんは、いったいどんな方なのか。そしてなぜ「嫌われた監督」なのか――。
落合さんについて思い起こすのは、成績の凄まじさとともに、バッシングもまた凄まじかったことです。「ナゴヤドームにお客さんが入らない」「面白くない野球」。とりわけ強く印象に残っているのは、2007年の日本シリーズ。8回まで相手の日本ハム打線を被安打0に抑え、完全試合目前だった投手・山井大介さんをマウンドから降ろし、岩瀬仁紀さんに継投を決めた時のことです。あの瞬間、場内、いや、日本じゅうからその采配を非難する大ブーイングが起こりました。
僕の周りの中日ファンに聞いてみても、落合さんを「好きだ」という人、そうでない人、見事に真っ二つに割れています。王貞治さんや長嶋茂雄さんなど、日本プロ野球界に偉大な方が多々いらっしゃるなかで、落合さんほど、見る人によって印象が変わる方もいない。それは一体、なぜなのか。(広島カープファンの僕にとっては、「いい時に打つなあ」「嫌なバッターだなあ」という印象です)
なぜ賛否が分かれたのか...ひとつ言えるのは、1990年代後半から2000年代前半にかけて、中日といえば「星野ドラゴンズ」、当時の監督・星野仙一さんがその象徴でした。選手たちを激しく叱りつつも、情に厚く、血も汗も涙も濃い星野さん。感情を露わにする場面が多く、それがご自身のパフォーマンスとなって、選手や中日ファンたちはもっと彼についていきたくなる。「やっぱり星野さんだ」という思いでまとまっていたと思います。
ところが、その後、山田久志監督を経て就任した落合さんは、ベンチにじっと座ったまま、首をかしげ、勝っても喜びを表に出さなければ、苛立ちを見せることもない。ファンからすれば「何を考えているの?」という不安な気持ちになる。その、「得体の知れなさ」ゆえに、敬遠されてしまった面があるのかも知れません。
ずっとブレずに居続ける人
本書を繰ってみて初めて知る落合さんは、ずっとブレずに居続ける人。周囲の人たちにしてみれば、「で、お前はどうなんだ?」と、つねに問いかけられるように感じるのでしょう。川崎憲次郎、森野将彦、和田一浩……この本に登場してくる当時の選手たちは一様に、落合さんに対して畏怖の念を覚えています。落合さんは自分の歩み方、生き方について、確固たるものを持つ存在として描かれている。わが身を振り返させ、自問自答させるのだと思います。
「はたして僕はどうだろう。落合さんみたいにブレていないだろうか」
「落合さんのように、信念を、たとえ他人から何と言われようと貫き通せるのだろうか」
第1章は、投手・川崎憲次郎さんのストーリー。3年間、1軍で1回も投げていなかった川崎さんに、監督に就任したばかりの落合さんが「開幕投手はお前でいく。誰にも言うな」と告げる場面から始まります。さっそく冒頭から、落合さんの言葉の真意を探りたくなり、ぐんぐん引き込まれます。
本当は情の深い人では
ここで書くのはあくまで僕の勝手な思い込みですが、きっと落合さんは、本当はすごく「情」の深い方なのではないでしょうか。「情」が深いからこそ、敢えて彼は他人と距離を取る。選手ともフロントとも、コーチたちとも。「情」が生まれ、濃い関係をつくってしまうと、それに左右され、シビアな判断ができなくなる。「理」でずっと突き進むために彼は孤高を貫く――。
落合さんは、他人の言葉を、きちんと疑ってかかっている。「言われたことをそのまま受け入れる」ということは、言葉を換えれば、「責任を自分が負っていない」ということでもある。きちんと責任を取りたいから、まず疑ってかかる。自分で確かめる。そのようにして積み上げてきたものが、独自の考え方につながっている。飛球の取り方ひとつにしても、とことん突き詰めていった答えが、先達を「お前、どこでそれを教わった?」と驚かせたりします。
8年間の監督生活のなかで落合さんは、選手たち一人ひとりに、強い「個」を持たせていきます。それがない限り、集団は強くならない。自分の中の野球に対する思い、能力、向き合い方を徹底的に突き詰めさせる。そしていっそう「個」の磨かれた人たちの集合体としてチームを育てていくと同時に「ヘッドスライディング禁止」を告げる。それは目先の出塁や得点のために、自分の体を犠牲にするな、ということでもあるのでは。厳しくて、同時に優しい。選手個人の将来を見据えているのが、ひしひし伝わります。
こうまでしないと結果は残せないのか
強く印象に残るシーンがあります。それは、「アライバコンビ」と呼ばれ愛された二遊間の名コンビ、荒木雅博さんと井端弘和さんに対する落合監督の、ある采配です。落合さんは彼らにこんな言葉をかけます。「お前らボールを目で追うようになった」。荒木さんは、その言葉の真意に苦しみ続けます。この葛藤を描く場面、僕は思わずウルッときました。
野球というスポーツは、ワンプレー、じっと互いの手の内を隠した状態で向き合い、相手と駆け引きして進みます。かつて名将・野村克也さんは「野球は頭のスポーツだ」と述べました。ワンプレーワンプレー止まるからこそ、選手と選手、チームとチームの駆け引きがあり、見る者もその物語の裏側を想像しながら楽しむ。それが最大の魅力だと思います。
落合さんに運命を変えられた一人ひとりに迫り、様々な角度にアングルを変えながら、彼の8年の軌跡が立体的に綴られます。先に紹介した山井投手の降板エピソードも克明に記されます。あくまで冷徹に、適正な判断を下す落合さんは、選手に自分で答えさせる。恐ろしいプレッシャーであるのと同時に、気概も求められる。こうでもしない限り、結果は残せないのですね。全員に、そしてもちろん自分自身にもその緊張感を強いている。
定点観測をしているからこそ見える
この本は、著者・鈴木さんという1人の記者の成長譚としても読むことができます。人物全員を深く掘り下げ、記者として悩み、もがきながら、落合さんの「人となり」を描いていく。あれだけ他人を寄せ付けない落合さんが「話してやるよ」と彼には言う。きっと、覚悟を持って身一つで臨む相手にだけ、胸襟を開いてくれるのかもしれません。落合さんは鈴木さんにある日、こんな言葉をかけます。
「同じ場所から、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ」
定点観測をしているからこそ、見えるものがある。だからこそ得た濃厚な筆致、対象者との関係性。唸るしかありません。
日本のプロ野球は、週6日、数万人の目に晒され催される祝祭です。そこは大衆の鬱憤を晴らす「ハレの場」であり、皆の歓声を一身に浴び、戦わせられる。つねに闘い続ける者たちの辛苦の凄まじさを、この本を読めば改めて思い知ることになります。勝利への執着、結果を残さねばならない焦燥。苛酷な選手たちを救う一つの「最適解」が、落合さんのやり方なのでしょう。
ちょうどこの本を読んでいる最中、日本ハム・新庄剛志監督の「ビッグボス」会見を見ました。あまりに対照的で、何とも言えぬ感慨にふけりました。新庄さんの「優勝を目指さない」発言は、優勝を選手に強制するのではなく、長い1年間、右往左往せず目の前のことを一所懸命やっていこう、との意思表示と僕は解釈しました。新庄さんがどのような意図で発言されたのか、今後明らかになるはず。一野球ファンとして結果が楽しみです。
あわせて読みたい
さて、この本の著者・鈴木忠平さんが取材・構成を担当した、『清原和博 告白』『薬物依存症』も読んでみましょうか。覚醒剤取締法違反の罪で有罪判決を受けた清原さんが、自らを振り返った本です。はたしてそこにはどんな清原和博がいるのでしょうか。
(構成:加賀直樹)