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「病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉」阿部公彦さんインタビュー 言葉の「弱さ」、今こそ大事なとき

阿部公彦さん=家老芳美撮影

強い言葉がもてはやされる世の中で

――書名の「病んだ言葉」とはどういうことでしょう?

 最近、言葉の強さばかりが注目されていると思いました。言葉の上手な使い手、インパクトのあることを言う人、相手を論破する人など、言葉の「強面さ」みたいなものばかりが求められています。

 でも実際は、言葉の弱さがもっと大事になる局面があるんじゃないか。弱さはマイナスで間違っているから、排除されるべきだと考えがちです。でも、弱い言葉であるからこそ、説得力を持つようなこともある。そこで弱さという意味で、「病んだ」という言葉を入れました。

 矛盾して聞こえるかもしれませんが、病んでいるがゆえに癒してくれたり生命力を与えてくれたりすることがあるんですね。病んでいること自体がいいと言うと、言い過ぎかもしれませんが。全体としてそうした意図を伝えたいと思いました。

――コロナ以降、政治家が「ロックダウンすべきだ」など、強い言葉が増えたと感じます。

 コロナのようなことがあると、我々は普段より制度や権力のことを考えるようになります。たとえばワクチン接種などはシステマティックにやらなければならない。野放図にしたら無茶苦茶になってしまう。だからシステムをしっかりしようと考えるのは、自然なことだと思うんですね。

 ただ、人間はシステムと絶対に一致せず、そこから常にこぼれるわけです。言葉は微妙な境界上にあります。システムに沿う部分と、そうでない部分がある。規則に沿って機能することもありますが、人間がシステムからはみ出すときに言葉が追いかけてきたりする。言葉が肩代わりして、はみ出してくれるんですね。だから言葉のずれを見ると、人間がシステムとどう折り合いをつけているかがよく見えてくるんです。

 テレビを見ていても、基本的にある種の強い言葉にみんなが群がるという状況がありました。集団ヒステリーのようになって、切り取られた言葉が一人歩きすることがあった。ちょっとした失言が大きな注目を浴びて批判されたりしました。我々が情緒不安定になっていて、システムに向けた過剰な期待があったせいだと思います。

――コロナ禍において言葉は、情報を伝えるツールとしての側面ばかりが注目されたようにも思います。

 ちょっとした言葉にわっと騒いだり、言葉に癒されたいと思ったりする。コロナは言葉に注意を向けるきっかけになりました。それは我々がなるべく合理的に危機に対処しないといけないと思うほど、我々の非合理的な部分、ずれた逸脱した部分が出てきたからだと思います。

――「言葉のずれ」は本書に通底するテーマだと思いますが、どういうことなのでしょう? 

 言語が完全に安定したシステムなら、コミュニケーションは貨幣のやりとりのように行えるかもしれません。銀行で1円たりとも間違えないように勘定して、正確に取引を重ねるのと同じ。そういう言葉のモデルは、科学が力を持った18世紀の啓蒙主義の時代から浸透してきました。たしかに科学の公式、裁判、会計の用語などは、現実と言葉が一致しうるという発想で物事を進めていきます。

 そういう場では、言葉を事象ときっちり対応させようとする。何かを表すにも、妥当な言い方は一つしかない、と。しかし、実際には言葉はずれるんですね。どんどん更新が可能だし、ちょっと言い方を変えるだけで、同じ事象なのにまったく異なった見方を導いたりする。言葉は貨幣とちがって、枠にはめた通りにはいかないんです。枠にはめようとすると、人間のほうが疲れてしまったり、もの足りなくなったりする。

 では私たちはそういう不安定な言葉をどういう風に扱っているのか。そこを言語化したい。可視化したい。言葉のダイナミズムを扱った「言葉の生理学」というのでしょうか。そこを把握すれば、教育も人間関係も社会ももう少しうまくいくんじゃないか。ただ重要なのは個別性です。作家の場合も、一人ひとり「言葉の生理」は違います。だから個別の事例を追いかけることでこそ、全体を浮かび上がらせたいのです。

病は表現力につながる

――話は戻りますが、「病んだ言葉」とは必ずしも「病→癒し→再生」という一方向の回復のストーリーのイメージではないそうですね。

 そうですね。我々は病んでいることは悪い状態なので、とりあえず治さなきゃいけないと思うかもしれません。でも実際は生きることと病むことはほとんど同義ではないかと思えることもある。つまり、誰でもどこかが歪んでいたり、ずれていたりする。そうしたずれや逸脱があることが、特に文学の世界では表現力につながります。実際、歴史を振り返ってみると、いろんな病を抱えながらそれを言葉の表現につなげた文学者は枚挙にいとまがありません。

――病と言葉はどうかかわってくるでしょうか?

 病院でお医者さんに「ここが痛いです」と説明することはありますね。ただ、身体の調子がおかしい感覚は、なかなか簡単には言葉で表現できない。そんなとき、その得も言われぬ不調の感覚と、それを言い表したいという意志とが渾然一体となって、妙に過剰さをともなった迫力を持つことがあります。

 良い例は古井由吉です。彼は「書痙」という、書くときに手が震える症状に悩まされていましたが、そのせいでかえって書くという行為に強い意識を向けるようになり、「右手で物を考える」ほどになります。実際、彼の文章には土を削るかのような抵抗感が感じられ、独特の屈曲を生んでいます。ジョン・ミルトンの失明、漱石や正宗白鳥の胃、ジョン・キーツの微熱、佐伯一麦の肺なども文体への影響が感じられます。

――大江健三郎の文体も論じていました。

 大江健三郎の文章は、普通の日本語のほどよいセンテンスにおさまらない過剰さがあります。不協和音めいた思いつきや連呼、突飛な比喩、唐突な遭遇、至近距離からの声などが多用されます。彼は内面に獣のようなマグマを抱えていたのか、それが「文」という枠から溢れ出るような止めどなさにつながっていた。普通の意味での名文とはまったく違いますよね。

――そしてそもそも「語ること自体が病である」と。

 私が一番興味を持っているのは、そもそも人はなぜ語るんだろうということです。表向きは「お金をもらうため」「社会をよくするため」だったりする。しばしば、本人は周りの人にむけた善意ゆえに語っていると思い込んでいる。博愛的な愛に突き動かされている場合もある。ただ実際にはそれ以前にモヤモヤした表現欲みたいな何かがあるのではないか。たとえば私も英語教育について書くことで、世の役に立ちたいと思っているつもりです。でも本当はそれに加えて何かあるのかもしれない。

 一方で、恨みや憎しみで語る人もいます。嫌なことがあってムカついたときに喋ったり書いたりするとすっきりしますよね。言葉はそうやって人間のモヤモヤした過剰な部分を受け止めることもできる。そういう暗く重い表現は、社会的な意味での陰の部分であり「病」とも言えるけれど、語りのきっかけとしては見逃せないものです。

 文学の世界では、病という言葉をいい意味で使うことがあります。「それ、彼の病だからしょうがないよね」など。「宿痾」という言い方もありますし、穏当な言葉ならば「こだわり」でしょうか。英語でいうと‘obsession’です。書かざるをえないことがある、書きたいものがあるおかげで生きているという人がいる。だから語ること自体が病であるというのは、身体の不調が言葉の使い方に現れ出るといったこととはまた違ったレベルで、病と言葉の近さを表していると思います。