私が読んだ数千冊の小説の中で、最も衝撃を受けた作品である(ちなみに2位は『カラマーゾフの兄弟』)。
大学1年で受講した文芸評論家福田和也氏の授業で読んで以来、何十回と読み返し、その度に心が震える。
150ページ弱の作品になぜそこまで惹(ひ)かれるのか。人間の身勝手さ、傲慢(ごうまん)さ、移ろいやすく不都合な感情を知る格好の書だからだ。
主人公アドルフは2児の母で伯爵の愛人だったエレノールに熱烈な告白を繰り返し、ついに口説き落とす。だが恋が成就した瞬間、急に相手が疎ましくなる。最も求めたはずの人が最も離れたい人になり、態度を急変させ冷たく接する。しかし傷つく相手を見ると苦悩し、また甘い言葉を囁(ささや)いてしまう。身勝手極まりない話だが、そういう「どうしようもない部分」があるのが人間とも言える。
最も愛(いと)しいはずの人を最も憎んでしまうような、単純に割り切れない感情を描くのが文学で、読書を通して得るのは「正解」ではなく「人間観」だ。
編集者は「活字と向き合う仕事」だが、それ以上に「人間と向き合う仕事」である。本作りには著者以外にも様々な人間が関わる。当然、色々なトラブルがある。理不尽さに腹が立つ時、複数人の利害を調整する時、役立つのは「人間とはそんなものだ」という人間観だ。
「人間的なことは何によらず私に無縁でない」。古代ローマの劇作家テレンティウスの言葉が私の座右の銘だ。そう思えば自分の感情を制御し、他者の心理も推察できる。いまだに失敗することも多いけれど。=朝日新聞2022年1月19日掲載