地元山梨のFM FUJIで「FM藤巻」という番組を務めて1年が経とうとしている。続けていく中で心からありがたいと感じるのは、やはりラジオにメッセージを寄せてくれるリスナーさんの存在だ。メールの背景に日々の生活の彩りや日常の気配があり、言葉の奥に書いてくれた方の想いがある。そこに私なりに心を寄せてゆくと、一方通行ではなく静かな心の交流があるように思う。折々のメールテーマによって送られてくる内容もバラエティーに富んでいて、私はとても楽しみにしている。以前「藤巻にお薦めしたい本」というテーマで募集したところ、多くの方が本を紹介してくれた。そのうち実際に読ませてもらった一冊を紹介したい。
宮下奈都「羊と鋼の森」
宮下奈都さんの『羊と鋼の森』は、ピアノの調律師を目指し成長していく主人公(外村)の物語だ。外村が調律師を目指すきっかけになったのは高校時代、板鳥という名の調律師が体育館のピアノを調律している現場に居合わせたことだ。その体験を機に、自らも調律師の道に進む決意をする。調律の豊かな音の森へ踏み込んでゆく外村は、「いい音とは」という問いとともに迷い、悩み、成長してゆく。
外村に最も影響を与えた板鳥の調律に対する言葉は象徴的だ。「この仕事に、正しいかどうかという基準はありません。正しいという言葉には気をつけたほうがいい」。調律師は一台一台、個体差も、弾く人も、弾かれる環境も違うピアノを調律する。外村は板鳥に、調律するうえで目指している音を尋ねる。小説の中では原民喜の言葉を用いてこのように述べられている。
「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにしたたかな文体」
不完全さに誠実に
ピアノの音色に対して引用されたこの言葉は、普遍性を持って私の心にもこだました。矛盾しているもののどちらかの肩をもって、どちらかを切り捨ててしまった瞬間に「嘘」になってしまうものがこの世にあるとするならば、それはまさに人間の存在そのものではないだろうか。
少々乱暴な話を展開するが、もし正確な音だけを目指して調律をするならば、デジタルメーターを使ってきっちりとピッチを合わせるだけで良いのかもしれない。仮にそれを完全な音と呼ぶのであれば、調律師が目指しているのは不完全な音と呼べないだろうか。もっというと不完全さにどこまでも誠実に向き合う音、どこまでも不完全さを湛えられる音であり、裏を返すと不完全で矛盾に満ちた人間という存在に迫る音となり、どこまでも人間という生き物を肯定していく音に近づいてゆくのではないだろうか。
小さなナイストライを積み重ねて
私自身も、私自身の不完全さゆえに曲をつくり歌ってきたのかもしれない。そしてこうして文章を書かせてもらっていることも、ラジオで喋らせてもらうことも、根っこのところでは同じなのかもしれない。しかし実際に自分の音楽や言葉で表現するのは難しいし、そして何よりとても怖い。自分がそのまま出てしまうからだ。
話をラジオ番組に戻すと、トークテーマを打ち合わせし、毎週アンテナを張って過ごすよう意識はしているのだが、実際に喋ってみるとインプットした情報をただ右から左へ話しているだけであったり、言いたいことがまとまっていなかったり、自分の言葉で喋るということの難しさを痛感している。そんな中リスナーさんからのメールには心から励まされる。
3月のメールテーマは新年度に挑戦したいことというものだ。不安な中での決意や、逆境の中にあっても希望を語ってくれるメールを読んでいると、私の方が力をもらっているのではないかと感じるくらい、前向きで嬉しい気持ちになった。誰もが怖いからこそ、勇気をもって挑戦する姿は美しいのであり、上手くいくことばかりではないからこそ、焦らずに小さくともナイストライと思える体験を一つずつ積んでいくこともまた、尊いと感じる今日この頃である。