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アカデミー賞 多様でなけりゃ映画じゃない 本社編集委員・石飛徳樹

アカデミー賞候補者の昼食会で展示されたオスカー像。この形のトロフィーが受賞者に渡される=7日、米ロサンゼルス、AP

 米アカデミー賞授賞式が27日(日本時間28日)に開かれる。濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が4部門の候補に入ったことで関心が高まる。94回の長い歴史の中で日本映画が作品賞候補になるのは初めてだ。

 アカデミー賞は「映画芸術科学アカデミー」という映画人の親睦団体に属する会員たちの投票で決まる。少数の審査員が決めるカンヌなど国際映画祭と、そこが大きく違っている。

 2015~16年、40人の俳優賞候補全員が白人だった。会員約6千人の構成が白人男性に偏っていることが明るみに出た。アカデミーの対応は早かった。女性や非白人、外国人を数千人増やした。効果はすぐ現れ、20年に韓国映画「パラサイト 半地下の家族」が作品賞を受賞。「ドライブ・マイ・カー」の快挙もこの延長上にある。

 筈見有弘・渡辺祥子監修『アカデミー賞記録事典』は発足時からの詳細を年ごとに記す。映画祭と異なり、アカデミー賞は難解一辺倒の作品が受賞することはまずない。理由は「風と共に去りぬ」が8部門を得た1939年の章に書いてある。「会員のほとんどは芸術的尺度など持ち合わせていない」。随分踏み込んだ論評だ。事典とあるが読み物としても大変面白い。

地に落ちた名声

 赤狩りの50年代、非米的と追放された映画人が変名で書いた脚本にアカデミーは賞を与え、60年代には黒人のシドニー・ポワチエやイタリア語で話すソフィア・ローレンに主演賞を出した。ハリウッドが多様性を志向するのは、映画が一握りのエリートのためのものではないという認識があるからだ。女性や非白人、そして外国人から支持を得なければビジネスとして成立しない。そこには、健全な意味でのグローバリズムがある。

 メジャー各社がCG大作に重心を移した90年代以降、アカデミー賞にインディペンデントの会社が秀作を送り込んできた。その先頭走者がハーベイ・ワインスタインだ。「恋に落ちたシェイクスピア」「シカゴ」「英国王のスピーチ」ほか、次々に作品賞をもぎ取っていった。

 ところが2017年、彼が女優や部下に対する性的暴行の常習犯であると、ニューヨーク・タイムズが報道。名声は地に落ちた。2人の記者ジョディ・カンターとミーガン・トゥーイー著『その名を暴け』は、彼の犯罪を暴くに至る克明なルポだ。

 アカデミー主演女優賞を「恋に落ちたシェイクスピア」で得たグウィネス・パルトローら被害者を粘り強く説得し、ワインスタインの妨害をはねのける。その過程はサスペンスフルで、ワシントン・ポストの記者2人がニクソンを辞任させた『大統領の陰謀』を彷彿(ほうふつ)とさせる。これはロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンで映画化された。『その名を暴け』も映画にすれば秀作になるに相違ない。いや、したたかなハリウッドのことだ。もう誰かが着手しているのではないだろうか。

 17年に記事が出た後、性的暴行を受けた世界中の女性が声を上げ始めた。著者は「ダムが決壊する様子を驚きをもって見つめてきた」と表現する。アカデミー賞も#MeTooのうねりに目をつぶることは出来ない。

不思議な空気感

 さて、「ドライブ・マイ・カー」である。濱口映画を特徴付ける不思議な空気感はどこから生まれるのか。監督自身が『カメラの前で演じること』で解説している。理解の一助になるだろう。受賞予想めいたことを書くならば、「ドライブ・マイ・カー」はアカデミー賞には少し高尚なのではないか。濱口作品なら、昨年のベルリン国際映画祭で審査員大賞を受けた「偶然と想像」の方が明快な楽しさに満ちていて、アカデミー賞向きだと思えるが果たして……。=朝日新聞2022年3月26日掲載