熊本市の路地裏で書店兼喫茶店を営む。自ら選書した約4千冊の本が並ぶ小さな空間だが、そこはさながら熊本の文学基地といえる存在だ。近くに住む作家・画家の坂口恭平さんが原稿を書きに立ち寄り、詩人の伊藤比呂美さんからは「熊本文学隊」事務局を拝命。思想史家の渡辺京二さんの呼びかけで始まった文芸誌「アルテリ」の編集も、いつのまにか任されている。
本書はそんな多忙な書店主が生まれ育った街や家族についてつづり、雑誌に連載した自伝的エッセーをまとめたもの。中学時代に蒸発した母のこと。親代わりに育ててくれた祖父母との思い出。端正な筆致で明かされるエピソードの数々が、読み手に不思議な懐かしさを抱かせる。
出奔先から十数年前に熊本へ戻ってきた母は最近、認知症気味だ。病院の待合室に飾ってある花に無邪気に喜ぶ姿に、庭仕事が好きだった祖父とのつながりを感じ取る。あるいは、年の離れた姉が昔つくった雪だるま。自分にとっては母代わりのような存在だった姉も、あの頃はまだ大人とは言い切れない年齢だったのだと気付く。
執筆中、忘れていた記憶の断片が芋づる式によみがえったという。「若いころ大人に言われたことが、今の年齢になって理解できるようになったり、別の感情が生まれたり。私の過去を題材にしているけれど、読む人が自分の記憶をたどることができればと思いながら書きました」
そんな記憶の旅を、友人でもある写真家、川内倫子さんの作品が伴走する。一編書き上げるたび、2人で相談しながら写真を選んだという。
文筆に充てるのは、閉店後、就寝前のわずかな時間。「夏休みの宿題に追われている子どもみたいです」と、少し困ったように笑う。(文・板垣麻衣子 写真は本人提供)=朝日新聞2022年4月30日掲載