最近、仕事中に外を眺めることが増えた。理由は簡単で、わたしの机からちょうどてっぺんが見える桜の木に、様々な鳥が遊びに来ているためだ。
元々我が家は市街地にもかかわらず山が近く、イタチや狸(たぬき)、はたまたハクビシンといった生き物が始終目撃されている。それだけに庭に来る鳥もカラスや鳩(はと)といった都会の鳥から、スズメやメジロ、ヒヨドリ、はたまた急いで図鑑を引っ張り出さねば名が分からぬ鳥まで実に多彩。移動中の休憩地点に我が家の桜がいいらしく、朝から夕刻まで色々な鳥が羽根を休めてゆく。まだ一度も姿を見ていないが、冬の夜には梟(ふくろう)の鳴き声も聞くほどだ。
この半月ほど頻繁に来るのはスズメの一家で、まだ飛び方の拙(つたな)い子スズメたちが木の周囲を危なっかしく飛んでいる。ただ時々、我が家のごく細い窓枠に摑(つか)まろうとして失敗するスズメもおり、何の手助けもできないのに、そのたびに仕事を中断してはらはらと見守ってしまう。
とはいえわたしは別に、鳥たちを個体認識しているわけではない。ただただ通り過ぎてゆく彼らを、窓越しに一方的に眺めるだけだ。恐らく先方は、そんな人間がいることすら気づいていないに違いない。
しかしたとえば花は別に我々を喜ばせようと思って咲いているわけではないし、太陽も月星も人間の思いとは無関係に存在する。にもかかわらずただ黙々と在るそれらを愛(め)で、時に意味を見出(みいだ)す我々の行為は、一方通行ではあるものの、ゆるやかな愛情に満ちてはいないだろうか。
桜に来る小鳥が運んできたらしく、窓から見下ろした庭には今、名前も分からない草がびっしりと生えている。その中にひょろりとした紫の小花があったので、摘んできてコップに飾った。彼らはなにも知らなくとも、わたしが彼らから与えてもらう喜びは計り知れない。ならばわたしもまた知らぬうちに誰かになにかを与えられていればと思いながら、黙々と日々を過ごす。=朝日新聞2022年6月1日掲載