二十代の後半から三十代にかけて、盛んに海外へ出掛けた。
海外旅行は、一度弾みがつくと何度も繰り返すものだと言うが、それにしても、良くあんなに情熱が続いたものだと思う。
典型的なモラトリアム人間だったのかもしれない。
要するに、普通は十代の後半から二十代前半にかけてとり憑かれる「自分探し」という病に、人より遅くかかっていた、ということらしい。
北米や南米、アフリカは半ば仕事がからむ自動車旅行。ヨーロッパやインド大陸は、貧乏鉄道旅行が多かった。
指折り数えてみると数十カ国にも上るが、残念ながらロシア方面とオーストラリア大陸は未踏破である。そういうことを話すと必ず、
「一番思い出深い国はどこです」
と尋ねられる。しかし私には、手放しで讃美できる国がない。何処も一長一短。国民が親切でも生活環境が劣悪だったり、その真逆だったりする。
その中で比較的トラブルもなく、のんべんだらりと過ごすことができたのは、トルコ共和国である。
初めこの国の知識は、日本で得た三つのイメージでしかなかった。
子供の頃に見た「トプカピ」という宝石泥棒の映画、007の「ロシアより愛をこめて」、そして故向田邦子のテレビドラマ「阿修羅のごとく」で用いられたトルコの古い軍楽である。
特に「阿修羅の……」に使用された曲は、よほど日本人の異国情緒を刺激するのか、現在もテレビ等で突拍子もない場面で、用いられることが多い。
生で初めて耳にしたのは、イスタンブールの国立軍事博物館中庭だった。ツアー客に混じって、古い大砲を眺めていると、突然それが始まった。袖の長い民族衣装や鎖帷子をまとった軍楽隊が、けたたましく演奏を開始したのである。
その時、私は、これかと気づいてあわててカメラを抱えて中庭の花壇に立った。
私鉄の駅長さんみたいな格好をした警備員のおっさんが、私を日本人と見て、
「じぇっででん、じぇっででん」
と盛んに説明しようとするが、何を言わんとするのか、あとひとつ理解できない。
そのうち、太鼓を指さしてケス、縦笛の隊員をズルナと言い始めた。これは楽器の名と気づいてメモを取ると、おっさんは満足気にうなずいて去った。
その親切のおかげで、せっかくの生演奏は半分も聞くことができなかった。が、帰りにミュージアムショップへ寄ると、運良くCDを見つけることが出来た。
「トルコ・ミリタリーバンド・オブ・オスマンエンペラー」というパッケージの冒頭に「ジェッディン・デデン(ユア・フォーファザー)」と書かれていた。
「『阿修羅のごとく』の名曲は、こういう原題だったのか」
と遅まきながら知った。
十四世紀小アジアから起こったオスマン・トルコは、ほぼ二百年ほど東ヨーロッパからアフリカ北部を支配するに至った。多民族国家となったトルコは、軍隊機構も斬新で、その進退や士気の鼓舞を目的とする軍楽隊を盛んに用いた。
彼らはそれまでアラビアやペルシアの、一音四分割のマカーム(微少音旋律法)を九分の一音単位に改め、地域ごとに異なっていた演奏法も統一したという。また、トルコ人は「9」という数字を吉数とし、軍楽も九管編成、演奏者の数も九の倍数に定めている。即ち、軍楽は彼らにとって縁起物でもあった。
こうした進んだ国家体制も、十九世紀ヨーロッパ列強の圧力によって次第に劣化し、一九二三年にはトルコ革命が起きて現在の共和国となる。
「ジェッディン・デデン」の作曲者アリ・ルザ・ベイ(一八八八~一九三四)は、この革命前後の人だ。曲に「祖先も祖父も・古い陸軍行進曲」とあるのは、過去の栄光と追悼の意を伝えていきたい、という願いが籠もっているからだろう。
そういう思いで改めて曲を聞けば、ユーモラスでありながら勇壮、しかもある種の哀愁が強く感じられる。
以前、大阪の芸人サンが、この曲を評して、
「河内音頭みたいや」
と言った。派手な曲ながら、その中に盆の音頭といううら悲しいテーマが含まれているあたり、なるほどそれは「ジェッディン・デデン」に似ていなくもない。