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小泉八雲を知る 近代の葛藤、身をもって生きた 宇野邦一

妻セツ、長男一雄と神戸で過ごすハーン(八雲)=小泉八雲記念館提供

 「私は群れである」。「形として、私はただ波にすぎない。本質として、私は海なのだ」。ハーンのそんな言葉が脳裏に刻まれている。哲学的でもあり、鮮明なイメージを結ぶ言葉だ。松江で生まれ育ったものにハーンは親しい名前だったが、『怪談』の数編を知るにとどまり、やがて文学と思想の間で彼とは異なる方向に歩んできた。

感覚の微細さに

 西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版・2970円)の中の示唆は、新たな出会いの一つのきっかけになった。文明や歴史の大きな枠組みではなく、まずハーンの感覚の微細な働きに、とりわけ〈音感〉に注目していたこの本の考察に目も耳も開かれた。

 たしかに松江に着いて、早朝から耳に入ってくる音を記録したハーンの文章は、動きはじめる町の様子を、自分の心臓の動悸(どうき)のように知覚している。まるで彼自身が町の奏でる楽器のようになって様々な音声と共振している。片眼(かため)だけの視力で、湖と空の変幻をつぶさに見つめたハーンの描写もめざましい。そのように知覚した音声と光景はそれ自体としてきわだち、文章の生彩そのものになっていた。

 来日する前、北米、そしてマルティニック島に住んだ時期の執筆活動では、東西南北にわたる追求が厖大(ぼうだい)に蓄積されていた。奴隷制と植民地支配の跡に直面し、クレオール世界にも出会いながら、最良の文明や道徳とは何かをハーンは真剣に模索していた。日本で小泉八雲になる人は、西洋と他者を比較する独自の考察に陰影を深めていった。

 兵藤裕己『物語の近代』(岩波書店・3080円)は、冒頭の評論で、神戸で出会った盲目の芸人(瞽女〈ごぜ〉)の歌う場面を語ったハーンの文章を口火にして、「耳なし芳一」の物語を論じている。口承文芸へのハーンの強い関心は、明治の文学に歴然と残っていた朗誦(ろうしょう)する身体の実存と結びつけられる。この論は、フランスの詩人・演劇人アントナン・アルトーが、ハーンの怪談を発見して書き改めた「哀れな楽士の驚異的冒険」もとりあげ、そのアルトーが、耳を切ってしまったヴァン=ゴッホを讃(たた)える強烈な文を残していたことにもふれている。このアルトーこそ、かつて私に憑依(ひょうい)してしまった存在で、彼が若いときひそかにハーンの作品を発見していたことも、小泉八雲との「奇縁」の発端になった。

根源への眼差し

 瞽女や琵琶法師が死霊と対面し死者になりきって語る朗誦文芸の系譜には、「近代」の画一的な言語に風穴をうがつ異質な力がある。ギリシアに生まれ、数奇な彷徨(ほうこう)の果てに日本にたどりついたハーンは、反近代のしぶとい繊細な力に味方した。近代/反近代の複雑な葛藤を身をもって生きた魂の記録が残される。

 『小泉八雲東大講義録』(池田雅之編訳、角川ソフィア文庫・1188円)は、帝国大学での多彩な講義内容を一冊に圧縮して、文学者ハーンの稀有(けう)な器量とスケールを知らしめる。その中の「文学における超自然的なもの」という文章は、あらゆる芸術作品に「霊的な(ghostly)もの」が宿っている、という話だ。古代アングロ・サクソン人にとって霊的なものは、すでに神、聖性、奇跡などのすべてを意味しうる広がりをもっていた。「超自然的」、「霊的なもの」は、やがて異教として、キリスト教の普遍性に駆逐されてしまうが、キリスト教以前の根源的なものを、ハーンはいつも眼差(まなざ)している。そんな視野に立ち、学術から自由な語り口で西洋文学を、シェイクスピア、イギリスロマン派まで褒めたりけなしたりの独自の講義だったのだ。

 「ちっぽけ、突飛(とっぴ)、奇矯、むら気、直情的、移り気、神経質な」と自分の性格を形容していたのだが、彼の著作の全体は、たしかに深い「大海」のようでもある。=朝日新聞2025年12月20日掲載