鴻巣友季子の文学潮流(第33回) さらに進んだ翻訳、日本文学は世界文学へ
2025年は日本の小説にとって一つの里程標的な年になるはずだ。日本の、とくに女性作家の海外進出については、あちこちで喧伝されていることであり、これが一過性のブームに終わることはないだろう。
日本文学にとって外国語に翻訳されて読まれることになんの意味があるのか、創作の本質はそこにはないと、ある評論家に言われたことがある(「海外での評価なんか全然どうでもいい」と)が、それはいささか近視眼的な見方だろう。翻訳とはベンヤミンを持ちだすまでもなく、異邦の目による新たな読みの創出であり、世界観の再生であり、知の再構築であり保管でもあり、作家自身がこの世を去った後にすら「死後の生」を紡ぎつづけるものだ。
そうして他国、他言語、他文化圏の受容や、国外の文化に及ぼした影響は、めぐりめぐって日本文学自体に大きな影響をもたらすだろう。文学は翻訳という対話を通した巨大な循環とネットワークのなかにあり、それが世界文学と呼ばれるものだ。
近年における日本小説家の国際文学賞の受賞・候補歴や、何百万部という莫大なセールス(アニメ、マンガ、ゲームに比べると小さいマーケットだが、国内のそれからするとかなり大きな数字)については、この連載でも紹介してきたので、そちらの記事(①、②)もごらんいただきたい。また、日本文学の海外受容についてまとめた拙著『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』(ハヤカワ新書)では、この現象を世界文学の潮流において読み解いているので、ご参照いただけると幸いである。
今年英訳が出たなかで、この連載で言及する機会がなかったが特筆しておきたいのは、柴崎友香『百年と一日』の英訳One Hundred and One Day(ポリー・バートン訳、MONKEY刊)、芥川賞作家九段理江『東京都同情塔』の英訳Sympathy Tower Tokyo(ジェシー・カークウッド訳、ペンギンブックス刊)と、多和田葉子『エクソフォニー 母語の外に出る旅』の英訳Exophony: Voyages Outside the Mother Tongue(ライザ・ホフマン・クロダ訳、ニューディレクションズ刊)といったあたりだ。
どちらも著者の代表作だが、多和田葉子の核心的思想をまとめた評論集『エクソフォニー』が原著の出版から4半世紀を経てとうとう英訳されたことは記念すべきだ。長編3部作の最終巻『太陽諸島』も今年英訳が出ており、多和田の国際的評価が一つの大きな形をとりつつあるのを感じる。
最近の日本文学の翻訳の流れを見ると、20世紀の「文豪を大御所翻訳家が訳す」という図は当てはまらないことがわかる。翻訳家の層も若返った。Toko Ueno Stationで柳美里とともに全米図書賞翻訳部門を受賞したモーガン・ジャイルズは本作の英訳がデビュー作だった(受賞時に30歳そこそこ)。
翻訳される側の作者も若返った印象があるし、英語圏に出ていくまでの文壇の「手順」のようなものが崩れていっている。デビュー作『ハンチバック』が、国際ブッカー賞と全米図書賞の翻訳部門のロングリストに入り、フランスの4大文学賞の一つメディシス賞の最終候補になった市川沙央や、日本で単行本が出ないうちに英訳が決まっていた八木詠美の『空芯手帖』など、これまでの文壇的な型を打ち破るケースが続出している。
そのため、最近の新進作家は芥川賞・直木賞を目指すより先に英訳されることを意識しているという話も耳にする。どのように書けば、日英翻訳家の目に留まるのか?と。
ここで、「翻訳されることを意識して書くのは良いことか」という問題につねにぶつかる。いま英米で最もよく読まれている日本小説家の一人、村田沙耶香が野間文芸賞の受賞スピーチで、これからも「自分は変わらないでいる」と明言したことは頼もしい。
翻訳者の立場から一つ言わせていただくと、作家のみなさんには翻訳しやすさ、もっと言えば翻訳可能性など忘れて、母語であれ非母語あれ自分の創作言語で思う存分書いてほしい。これが多くの翻訳者の本音ではないだろうか。もし作家から「翻訳しやすいように書いておきましたよ」などと言われたら、職人気質と芸術家気質を併せ持つ文芸翻訳家という生き物は、むしろがっかりするか、むっとしそうな気がする。
私は小学生の頃からなぜか翻訳文学ばかり読んでいた。私にとって外国文学とは、「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ」(ドストエフスキーの主人公)なんていう名前や、「コンクラーベ」(教皇選挙)などという知らない行事や文化に出会える場だった。
「不可思議さ」や「遠さ」を楽しんでいたのだ。そういう戸惑いとときめきを込めて自分の本にも『ギンガムチェックと塩漬けライム』という聞き慣れない名詞を並べたタイトルを付けた。
さて、こういう翻訳文学のよくわからない物事や言葉をまとめた本が出たので紹介しておこう。『英米文学のわからない言葉』(金原瑞人、左右社)。著者はヤングアダルト小説などを数々翻訳し、多くの翻訳者を育ててきた。
あいうえお順に項目が並んでいるので、「あ」にはさっそくアブサンがある。これが出てくると、外国小説を読んでいると実感するような語だ。私の記憶にあるかぎりでは、最初に出会ったのはジェイムズ・ジョイスの小説だったろう。この酒はもともと「貧乏人が安く酔っ払えるように」作られたという。
たしかに、文学作品中で人生を破滅させる酒と言ったらこのアブサンか、マルカム・ラウリーの『火山の下』(大江健三郎の愛読書)で主人公が痛飲する粗悪なメスカルなどが有名だ。
ひまし油(castor oil)というのも謎だった。お腹をこわした子どもが飲まされる異様にまずい薬。トウゴマの種子を絞ったものだそう。先日、イギリスの有力紙で、ある仏英翻訳家の談話を読んでいたら、久しぶりにこのcastor oilに出会ったのだが、かつての翻訳文学がひまし油に喩えられていて苦笑してしまった。その翻訳家は私と同じ1960年代生まれで、こんなふうに言っていた。
「私たちの世代は、翻訳小説はひまし油のようなものだと思って苦しんでいました。飲み心地は良くないけれど体には良いんだろうと。しかし本というのは“体に良い”とか“悪い”とかいうことで判断されるものではありません。人びとが求めているのは、没頭できる本なんです」
前世紀の翻訳小説の一部は読みにくくて誤訳も多く、読書が苦行に思えたが、私たちは外国文学とはなにか尊いもの、知性の一環として身につけておくものと思い、我慢して飲んだ(読んだ)のだった。
金原氏は調べながらも、やっぱりよくわからないと結論する。例えば、「ハート型の顔」という表現。ずっと鉄腕アトムのウランちゃんのようなM字形の生え際を想像していたと。実のところ、このハート形というのは生え際の形に言及しているのではなく、生え際にwidow’s peak(日本でいう富士額)があると、顔の形がハート形に見えやすいということだと思う。
ハート型の顔として文学史上有名なのは『風と共に去りぬ』のメラニーだ。彼女にもwidow’s peakがあり、文字通り未亡人になりかける。スカーレットはこの顔を不細工だと言いつづける。
翻訳者泣かせの語がつぎつぎと登場する。日本文学が盛んに世界に出ていくいま、外国文学のなつかしい翻訳を思いだしながら、改めて文化の違いを考える契機となる一冊だ。