「外国文学のおすすめ」を学生などに尋ねられると、「自分からちょっと遠いなあと感じるものを選ぶといいですよ」と答えることがある。昨今、読書を他者や未知との出会いの場ではなく、自らの知識や体験の追認として行う人が増えているように思うからだ。
紙媒体もネットも、作者や主人公が自分と“近い”から信頼できる、共感した、だから作品を評価するという均質な感動で溢(あふ)れている。
こうした現象は英米でも同じらしい。リレータブル(relatable)という語の批評における濫用(らんよう)が長らく指摘されてきた。「関連づけられる」などを意味していたこの語は、ある時から「親近感がわく」「私の物語だ」という特定の意味で使われることが爆発的に増えたという。
逆に自分から遠く感じるものには無関心。先般、アジア系少女を主人公にした米国ピクサーアニメ映画の最新作に、白人男性の業界人が「自分と関係ない話」という趣旨の評を投稿して炎上した。近年の“親近型読書”は本の中に自分の似姿を見つけて記録する「自撮り」のようなものだと、「ニューヨーカー」誌で評され議論を呼んだこともある。
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こうした自撮り的な読みは、左川ちか(1911~36)の作品群とは相容(あいい)れないだろう。
島田龍編『左川ちか全集』(書肆侃侃房)は、この詩人の詩、散文、書簡、翻訳を全て収録する初の全集である。不意に変転する生と近づく死の足音。存在の不安と狂気。左川は海外でも前衛詩人として評価されながら、国内では網羅的な文献が入手しづらく、神話化されていた。本書は精密なテキスト研究に基づく解題と、入門読者にも手厚い解説を収めている。
左川は欧米のモダニズム文学の書き手をいち早く訳出した翻訳家でもあった。彼女の創作に繰り返し現れる「緑・青」「ころがる」「心臓」といったモチーフは、ジョイス、ウルフ、インブズなどの作とも関わりをもち、日常と皮膜一枚の異様な心裡(しんり)を截(き)りだすアンダスンと通じるところもある。
ジョイスの「室楽」でheartを「心」ではなく「心臓」と訳して、原文のリリシズムを異化したことに、編者の島田は注目する。主知的な詩人であった左川は「叙情の韻律」を拒み、“私”という作者個人の主情を「後景」に置いて書き、女性であることや、女の私的な怒りや悲しみをじかに書かなかった。それが、詩史における正当な評価を遠ざけてもいたという。「私の物語」とたやすく引き寄せられないこの蒼蒼(そうそう)たる言の葉叢(はむら)に、いまの読み手はどう対(むか)い合うだろう。
小説教室内のパワハラと性暴行を多角的に描く井上荒野『生皮』(朝日新聞出版)も、安寧な読書からほど遠い。カリスマ講師に気に入られ、セックスを強いられた女性受講者が7年も傷を抱えたのち、週刊誌に告発する。だが、これは告発小説ではない。作者は「小説で誰かを啓蒙(けいもう)」する気はないと言っている。
井上荒野はいつも“近しさ”を意識させずに人物の内面に引き込むから怖い。本作でも、「レイプ」された女性たちのみならず、暴行を正当化する女性にも、男性の方が被害者だと言い立てる男子大学生にも、暴行者自身にさえ、私は感情移入する瞬間があった。精神的な八つ裂きのような苦しさを伴う読書だ。小説の醍醐(だいご)味ともいえる。
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文芸誌からは群像新人文学賞の小砂川チト「家庭用安心坑夫」(群像6月号)を挙げたい。母一人に育てられた女性小波(さなみ)と、父ツトムを描く2パートから成るが、ツトムは廃鉱山を転用したテーマパークに立つ坑夫のマネキン人形であり、小波の行く先々に現れるという不条理劇が起きる。そのうち小波の母の性癖、母子の奇妙な「墓参り」、小波と夫の精神的な疎遠さなどが明かされ、このまま生きづらさを描く家族小説に流れるかと思いきや、そうはならない。かといって、狂想にも逃げこまない。奇天烈(きてれつ)な展開のなか、言動のいちいちがリアリズムの手つきで律義に書かれる。
狂気と現実のどちらにも寄り切らせず書けたのは、読者に真相が不可知の一人称語りではなく、登場人物と語り手の視点を精細に切り替える三人称文体を採択したためだろう。終盤、人間が誰もいない家中のようすが書かれ得たことは、この文体の成果だ。感動の均質化に抗(あらが)って書いていってほしい。=朝日新聞2022年5月25日掲載