寺山修司は少年時代の一時期を青森県三沢市に暮らした。そこで中学の国語教師をしていたのが本書の追う中野トクである。直接の担任ではなく、教え子を介して知り合った。以後、苦境にあった若き寺山を精神的にも金銭的にも支えていく。
「シングルマザーで自分が大変なのに、立派な人でした。寺山の才能を見抜いたこともあるのでしょう。寺山は寺山で甘え上手でした」
静岡市在住の著者には『寺山修司 青春書簡』という編著がすでにある。早稲田大学に進むも長期入院を余儀なくされた寺山が中野に送った75通を収め、それぞれに丁寧な解説を付した。はがきも手紙も、筆跡やイラストまで「寺山作品」という他なく、あり余る才能の出口を病魔に封じられた寺山の苦悩が切ない。
対になる格好の今作は、大正生まれの中野が育った時代と風土から説き起こす。いま寺山修司記念館が立つ三沢市や周辺の往時の暮らしぶりが伝わって、貴重な地域文化史でもある。歌を詠み、文学活動にいそしんだ中野は、地元の様子も書き残した。本書に収録された自作の童話「木馬のゆめ」を読むと、中野は寺山のなかに自分を見たのかもしれないと思うほど相通じるところがある。
本書から中野の歌を一つ引く。
〈燈火(ともしび)を提(ひさ)ぐる如(ごと)く生きて来ぬ三人子を生み一人を死なせ〉
寺山が好きな人なら、青年寺山が紺色のとっくりセーターを着て気取っている写真をご存じだろう。あのセーターを贈ったのが中野だった。写真は寺山初の作品集『われに五月を』に使われたが、著者は収録作の評釈を次の仕事にしたいと考えている。大学の卒論で手がけた寺山研究が、『初期寺山修司研究』の刊行を経てここまで続くとは思わなかったと言う。三沢には夜行列車の時代から通った。風景は今も焼きついて離れない。(文・写真 福田宏樹)=朝日新聞2022年6月11日掲載