凶悪殺人を語る際に安易に使用されがちな言葉のひとつに「心の闇」というものがある。殺人者の心には我々には想像もつかぬほど深く濃い闇があるに違いないという意識のあらわれだろうか。実際には全ての人の心にひとしく闇があるのだが、それを認めることには抵抗がある。だから皆、殺人者の「心の闇」を知りたがる。闇をライトで照らし、異常性を見つけだそうとする。
一方で、殺人者と自分の共通点を見つけることに仄(ほの)暗い愉悦を覚える者もたしかに存在する。『死刑にいたる病』の主人公、筧井(かけい)雅也は後者だった。
かつては優等生だった雅也は、今はさえない法学部の学生として鬱屈(うっくつ)した孤独な日々を送っている。そんな彼に一通の手紙が届く。差出人は榛村(はいむら)大和。二十四件の殺人容疑がかけられている男だ。警察が立件できたのは二十四件のうち九件のみ。大和は九件のうち八件の容疑を認めたが、九件目の事件だけは冤罪(えんざい)だと主張している。大和が雅也に依頼したのは、その九件目の事件を再調査し、無実を証明することだった。
依頼を引き受けた雅也は大和の過去を知る人々を訪ね歩き、話を聞く。彼らの話を聞き、拘置所の大和との面会を重ねるうちに、雅也は次第に大和に魅了されていく。
選んでいい。選ぶ権利がある。作中、そのような意味の言葉が印象的にくりかえされる。自分は選ぶ側の人間であるという自覚、あるいは自分が選ばれた人間であるという自覚、またはそうありたいという願望。卑小な選民意識と呼んでしまえばそれまでだが、多くの人が似たものを抱えているのではないだろうか。
雅也は事件の真相に辿(たど)りつけるのか。大和の実像をつかめるのか。それを知るために夢中で読み進めた読者は、物語の最後に気づかされることになる。ライトで照らされ、暴かれていたのは自分の心だった、ということに。=朝日新聞2022年6月25日掲載