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堀江敏幸の散文がとらえる人の息遣い「ポール・ヴァーゼンの植物標本」

『ポール・ヴァーゼンの植物標本』からエーデルワイスの標本

 自然から切り離す。様々な種類の草花が、台紙を背景に余白を作る。標本にはどこか不自然さが匂い立つものだが、これは違う。見ていたい。ずっと。そんな気持ちにさせるのは、草花を摘みとり、楽しみながら紙に留めていく手つきが、見えるようだから。作者はポール・ヴァーゼン。名前しかわからない。古道具屋が南仏の蚤(のみ)の市で見つけ、日本に持ち帰らなければ、100年ほど前の彼女の「見た」植物を、今、こうして見ることはなかった。

 堀江敏幸の散文が、フランスの古道具屋での「記憶」をまじえながら、彼女の姿を素描する。手掛かりは少ない。けれども彼の言葉はいつものように、言葉の世界を散歩することをやめない。そして、誰もいないと思っていた場所から、ふと人の気配を手繰り寄せる。彼女には「指南役」がいたのではないかと、傍らにいた誰かの姿の、かすかな影を見る。素朴なこの植物標本を「残しておきたい」と願った誰かがいたのでは、とも。標本は、植物だけを保存している冷たい容器ではなかった。草花の余白には、人の息遣いが消えることなく、残っていた。=朝日新聞2022年8月20日掲載