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【谷原章介店長のオススメ】窪美澄「夜に星を放つ」  「リアルな情景に自分の手をじっと見つめたくなる」

谷原章介さん=松嶋愛撮影

「だったら対等に勝負しようぜ!」

 つい先日、第167回直木賞の受賞作が発表されました。「夜に星を放つ」(文藝春秋)。著者の窪美澄(くぼ・みすみ)さんが、受賞後の記者会見で話していた言葉に惹かれました。

「(短編の)5編のうち2編がコロナについて書いている。この3年間のあいだ、非常に重いものを私もみなさんも抱えて生きていたと思う。せめて小説のなかでは、ちょっと心が明るくなるようにと思って書いたのがこの作品集です。ちょっとでも息抜きになってくれればいいなと思って作品をつづってきました」

(2022年7月20日 22時00分配信、朝日新聞デジタル)

 「息抜き」、という言葉に、まず目が留まりました。溜まったストレスを、物語として皆で共有したい。積み重なった辛苦を、束の間であっても軽くしたい。かわいらしい装丁も魅力的だったので、さっそく本を手に取ってみました。ところが……。

 結論から言ってしまえば、「ちょっとでも息抜きになれば」というたぐいの本では、まったくありません。これはあらかじめ皆さんに伝えておきたいと思います。およそ予想とは異なり、どの短編からも重い読後感を覚えることになります。自分の手のひらをじっと見つめたくなる、そんな一冊です。

 5つの短編に登場する人物は、誰もが皆、鬱屈を抱え、うまくいかず、もがき続けます。このところ僕が思うのは、「世の中は、ままならない。」ということ。全部うまくいくはずがない。この物語もそうで、甘いファンタジーではありません。登場人物は皆、何かしらの心の傷を抱え、難しい立場で悩んでいる。そこに、コロナ禍が重なり、窪さんは「自分たちが生きていく」ことについて、焦点を当て続けていきます。むしろ「コロナなんて関係ない、どんなにつらくても生きよう」とでもいうような、エールにさえ思えてくるのです。

 カタルシスもなく、ハッピーエンドにもなりません。だからこそリアルな情景が浮かびます。その筆致が秀逸で、みるみる引きこまれます。ままならない現実や、人間関係のもつれ、折り重なる不幸。コロナ禍になって以降、とかく人々は癒しを求め、せめて物語の中だけでもハッピーエンドを求める傾向でしたが、そんな思いは軽く突き放されます。「めでたし、めでたし」は、1編たりとてありません。孤独、別れ、負の感情の渦巻く現実は、コロナがあろうとなかろうと、変わらない。そこにあるのは地平(ちへい)です。同じ地面に皆、立っている。「だったら対等に勝負しようぜ!」という呼びかけにも思えるのです。

 こんな1編があります。カフェを営む父親を持つ小学生の男の子が主人公の短編「星の随(まにま)に」。両親が離婚し、彼の父は新しい母親を迎え、弟が生まれます。父親はコロナで収入が激減。男の子は、本当は実の母親と一緒に暮らしたい。新しい母親のことを「お母さん」となかなか呼ぶことができません。でも、生まれてきた弟のことは可愛くて仕方がない。

 この男の子の描写が、本当に切ない。父にも、新しい母にも、弟にも彼は全方向に気を遣って生きています。「お母さんと一緒に住みたい」と思っていても、実の母親は「現実では無理」。やがて、新しい母親との間に、軋(きし)みが生じていき……。ある場面で、男の子が思いを全部飲み込み放つ言葉があります。これが切ない。まったく救いがない。大人たちが問題を解決し、男の子をしっかり守るべきなのに。

 5つの物語に共通しているのは、ことのなりゆきをつまびらかに説明しない点です。たとえば「なぜ離婚に至ったのか」「なぜ家を出て実家に戻っているのか」を、あえて描かない。そのまま、葛藤や、すれ違いが綴られ重なっていく。だからなのでしょうか、読み進めていくと、何かの折に唐突に、僕自身の家族との関係に重ねて考えてしまう瞬間があったりするのです。思いもよらぬところで心に響く、そんな一瞬を迎えるたび、「奥さんや家族に、こんな言葉をかけてはいけない」「家の雰囲気を、こんな酷い状況にしては良くない」と、戒めることになるのです。そういう意味でも抉(えぐ)られる本です。

 すべてをファンタジーにしない。安易に物語の中で人を救わない。でも、それによって「僕もしっかり生きていこう」と思えてくる。「癒し」には決してなりませんが、現実の自分から逃避しないで向き合っていこうという気になりました。読後感とは裏腹に、背筋が伸びる、不思議な本です。

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 ふだん、受賞直後の本を読むことはそんなに多くないのですが、せっかく直木賞の本を紹介しましたので、芥川賞の受賞作も読んでみようと思います。「おいしいごはんが食べられますように」(高瀬隼子・著、講談社)。受賞時の新聞記事によると、物語の舞台は、食品パッケージの製作会社。働き方や仕事への向きあい方が異なる男女3人の登場人物を軸に、食べることに対する価値観のずれを通し、ままならない人間関係を描く作品、とのこと。――これだけでは展開の想像がつきませんよね、面白そうです。(構成・加賀直樹)