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アニー・エルノー「シンプルな情熱」 様々な「私」の生に食い込む

 アニー・エルノーのノーベル文学賞受賞は、紛れもなく歓迎すべき事態である。

 女性による「私」語り、ただ人生の真実を掴(つか)み描こうとする試みを、「文学」はもはや看過してはいられないということなのだから。

 だがもちろん、ノーベル賞なる権威に承認されるか否かなど、本質的な問題ではない。

 自らの体験をもとに綴(つづ)られるエルノーの作品は、たとえば『シンプルな情熱』が若い男性との不倫関係を赤裸々に描いたものであるように、何も小難しい事柄を扱うものではない。恋愛、性欲、嫉妬、別れに際する苦悩といった、様々な人が経験し得るごく身近な事柄を語るものこそエルノー作品である。エルノー作品とは、「私」を描き、それを読む様々なる「私」の人生に食い込むものに他ならないのだ。

 ロマンティシズムともナルシシズムとも無縁な『シンプルな情熱』は、取り繕うことを良しとしない。恋愛関係の陶酔の最中にあった状態を余すことなく描きながら、抑制の利いた文体で情熱を冷静に語るという矛盾を実現してみせるその作品は、女性の生/性に、「私」に徹底して向き合うものである。

 たとえば子どももキャリアも持つ女性である主人公は、しかしこれまでの人生で「昼下がりにこの人とベッドにいること以上に重要なことは何ひとつ体験しなかった」と語る。別れた後には元恋人の肉体を思い描き、「自分で自分に悦(よろこ)びを与えた」と語る。現在の苦悩を過去のそれによって忘れようとするかのように、若い頃中絶を体験した場所に再び訪れてみたことも語る。中絶の権利が奪われていた時代に中絶しなければならなかった事態を、目を背けたくなるほどの率直さで描き切った作品を含む『嫉妬/事件』もまたそうであったように、ここにはただ剥(む)き出しの生がある。装飾を排したその作品は、のっぴきならない現実を生きる私たちの生に真に寄り添うものであるだろう。=朝日新聞2022年12月17日掲載

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 堀茂樹訳、ハヤカワepi文庫・880円=5刷4万4千部。2002年刊。担当者は「受賞を機に売れた。興味をそそる内容と文学的深みで、SNSで話題になったのも要因では」。