原子力開発派と放射線防護派の対立を見ながら
――なぜ、アメリカの原子力学会が主催する会議に参加することになったのでしょう?
カナダ人の知人・クリスから一通のメールがきたことがきっかけでした。私は震災後に福島で放射線にまつわるボランティア活動をしていて、「ICRPダイアログ(のち、福島ダイアログ)」という対話集会でクリスと知り合いました。クリスはICRP(国際放射線防護委員会)という国際専門家組織の科学秘書官でした。これは1928年に設立された団体で、放射線の医療利用が始まった当時、その健康影響や危険度のガイダンスを作るために発足したんです。今でも放射線の有害性から身を守るためのガイダンスを作っていて、日本の基準もそれに則っています。クリスはそうした活動のなかで、福島の支援で原発事故後によく来日していました。
クリスのメールによると、アメリカ人の知人が開く会議に、ある研究者が「福島の原発事故に関する発表をしたい」と売り込んできているそうで、私にどういう人なのかを教えてほしいとのことでした。ただ、私はその人とほとんど接点がなくて、詳しくは知りませんでした。だからそう返事をして終わりかと思っていたら、クリスと知人のメールになぜか私もCCに加えられて、矢のようなスピードでやりとりが始まりました。そこに突然、私の名前が出てきて、アメリカのとある会議で福島のセッションをやるから、私の福島での活動の話をしてほしいと言われました。
――当初はあまり乗り気ではなかったそうですね。
そもそも、一体何の話をしているのかもよくわからなかったんです。どんな組織が主催で、何の発表をする会議なのかも。自分で頑張って英語のメールを読み返してみると、どうやら原子力関係の人たちの会議だとわかってきました。主催者の名前をネットで検索してみたら、アメリカの原子力学会の会長を務めたこともある人でした。「え、ちょっと待って、ガチガチの原子力ムラの人じゃん! 何でクリスは私に説明してくれないの?」と目が点になりました。
――原子力を開発し推進する立場の主催者だと知って、もう行くのをやめてしまおうと思わなかったのですか?
いえ、それは全然思わなくて。「うわ」とは思ったんですけど、こういう人たちの話を聞ける機会ってなかなかないよな、と。面白そうだなと思いました。純粋に好奇心でしょうか。
――そして、旅費の交渉などもうまくいき、無事渡米されますね。ワシントン州リッチランドの現地では、スティーブさんとボニーさんという夫妻の家にホームステイしました。本書はお二人との交友エピソードが軸となっていますが、なぜこうした構成にしましたか?
2人の家に滞在したことがすごく印象的だったんです。アメリカの旅を振り返ったときの、私の体験の着地点というのでしょうか。彼らに連れられてロードムービーのようにいろんな所へ行きましたが、スティーブとボニーのいる落ち着ける場所を拠点にできたことが大きかった。最後には2人に手紙を書くことも決めていました。
スティーブは本当に無口で不思議な人でした。車や家でもいつも裸足なんです。でもなぜそうしているのかも話さない。2人とも無口で、一切説明というものがないんです。ある日、2人のお子さんが家に来たときも、説明が全然なくて、途中で「もしかして親子?」と気づきました。
でも2人は本当にいいコンビでした。まるで生まれたときから一緒にいるんじゃないかというくらい、雰囲気がぴったりだった。あまり口は聞かないんですけど、私が困っている時にはふっと気を回してくれた。すごくあたたかいご夫婦でした。
――特に在米日系人の方と出会ったことは大きな経験だったそうですね。
それがこの本を書こうと思った動機でした。スティーブに誘われた民主党の小さな集まりで、在米日系人のご夫婦にたまたまお会いしました。その方から、戦中に日系人の強制収容所に入れられたご自身の経験談を聞いたんです。なにひとつアメリカ人と変わらないと思って暮らしていたのに、突然友人たちから仲間外れにされて、いじめられるようになってしまったと。そんなひどい経験をしたのは、自分が日本人だからだと思って、戦後は日本にかかわるすべてのものを捨てて、アメリカ人になろうとしてきたという話でした。その体験を話さずに死ぬのは嫌だという思いが、彼の心の奥底にあったのだと思います。運命というと大袈裟ですが、この出来事を書かなければいけない必然のようなものを感じました。
――お話を聞いて、どのような感想を抱きましたか?
私たちの戦後は、こういう風につながっているのだな、と。その方たちも、普段はそんな話はおくびにも出さずに生活されているのだと思います。でも、心の奥底に強制収容所の経験があって、それがその後の人生そのものを決めてしまった。戦争によって規定された人生を送っている人は、実はほかにもたくさんいるんだと思います。今、戦後といってもしっくりこない人が多いかもしれませんが、いまだに私たちにも深い影響を及ぼしていることを強く感じました。
ダイアログの困難と可能性
――そして参加された会議について教えてください。原子力関係の人々が多かったそうですが、日本とアメリカで何か違いを感じましたか?
本には書きませんでしたが、実は会場で日本の原子力技術者の方とお会いして少し立ち話をしました。するとその方も「なんだ、この会議は?」とびっくりされていて。というのは、エネルギーとしての原子力と兵器としての原子力が、ひとつづきに捉えられていたからです。その方が言うには、日本の原子力工学では、原爆など核兵器の作り方はまったく教えられないそうです。大学で学ぶときも、その二つは完全に切り離して考えられていて、技術的につながっていることは歴史として知っているだけだと。
アメリカでどこまで教えられているかはわかりませんが、会議の雰囲気からすると、彼らは核兵器のメカニズムを知っているような印象を受けました。よくよく考えてみたら、確かに世界的に核や原子力の管理は、核兵器への転用を危惧しながら厳密にされている。国際的にはひとつづきであるという認識が常識なのでしょう。日本は被爆国だから切り離そうとして、なぜかそれが実現してしまった。世界的に珍しい国なのだと思います。
――安東さんの発表はどのような内容でしたか?
基本的に専門家の方たちは頭で考える方が多いので、福島の原発事故が起きたときの一般の人たちのリアルを伝えたかったんです。私たちが実際にどういう測定活動をやってきたのか、住民たちが政府や専門家に不信感を持った背景には何があったのか。そうしたことを通じて、福島のリアルを伝えたいと思いました。
――会場はどのような反応でしたか?
困惑しているようでした。彼らが想定していたストーリーと何もかもが違ったんだと思います。たとえば「放射線の基準値がおかしくて困りました」という話だったら、わかりやすかったでしょう。もしくは、マスコミが放射能の危険性を煽っているといった話でも良かったかもしれない。つまり「一般市民の原子力に対する理解が浅いから困った」と言えば、反応は大きかったと思います。
また、被災者なのだから、被害を受けて辛かった・苦しかったという話をするとうけたはずだと思います。でも私の話は、全然そうではないので「被害者はどこに行ったの?」という感じになったのだと思います。
――そうしたなかで、スティーブさんが発表後にハグをしてくれた場面はとても印象的です。
本当に胸一杯になりました。スティーブは一番後ろで記録用のビデオ撮影をしていました。発表後に聴衆は困ったような反応だったので、「大丈夫だったかな」と思いながら、とりあえずトイレに行こうと歩いていました。するとスティーブとばったり出会って。無口な彼が一言だけ「素晴らしかった」と言って、ハグをしてくれたのでした。気軽にハグするような人でもないので、一瞬迷って躊躇した上で、でした。力のこもった本気のハグで、「受け取ってくれたんだな」と伝わってきて。素晴らしいハグでしたよ。
――元原子力学会長の主催者・ダンさんによる閉幕のスピーチでは、福島の原発事故はショックなことだったと言及しながら、避難にまつわる関連死に着目し、放射線への過剰な恐怖心があったから必要のない避難をしてしまったと解釈していたそうですね。
その話をしたダンさんは、そもそも人の話を聞いて意見を変えるようなタイプにも見えなかったんですね…。だからやっぱりという感じでしょうか。でもその一方、これが現実なわけです。人の話を聞いて、意見をコロッと変える人というのは、そんなにいない。でも、彼も少なくとも私を会議には呼んでくれて、滞在中には一緒にドライブをしたりもしました。わかりあえないけれども、その中で話しつづけるしかないという諦念のようなものを感じました。
――そうした経験も踏まえて、ダイアログとはどのようにあるべきだと考えますか?
根本的には、ダイアログをしても、必ずしもわかり合えるものではないと思っています。必ずしも、話し合うことで相互理解が進んで丸く収まるというわけではないんです。人間はなかなか自分の枠から出ることはできない。まずは、暴力か話し合うかだったら、話し合うほうが良いというくらいに捉えています。
それでもなぜダイアログを続けるのか。話をやめたらもうそこには何も残らないからです。対話をする上では、高望みはせず、かつ、現実的に役に立つように方法論的な工夫などもしながら、それぞれが何かを持って帰れるようにできたらと思っています。