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お供とお友 澤田瞳子

 誰かのために手土産を用意する行為が好きで、人に会う約束ができるとわくわくと買い物に出かける。自分のための買い物はほとんどしないのに、我ながらまったく不思議だ。

 編集者さんには職場でつまめる何かを、お店で働く方にはリラックスタイムを楽しめる何かを、お一人暮らしの方にはお食事に添えられる何かをなどと考えて店を巡る。先日もある方に選んだ手土産に「ご飯のお供になれば」とメモを添えようとしたが、その際うっかり「ご飯のお友」と書いてしまった。もちろん急いで書き直したものの、その間違いが妙に心に引っかかった。

 お供とお友。辞書を引けば、食事に添える食べ物の場合は、「お供」の字を使うのが正しい。ただ桃太郎と鬼ケ島に向かう猿・犬・雉子(きじ)を「お供」と表現するように、「供」の言葉にはどうしても上下関係が含まれる。「ご飯のお供の塩昆布」であれば、白米が主で塩昆布は従だ。それに比べると、「お友」の方は音こそ同じでも、白米と塩昆布が茶碗(ちゃわん)の中で対等に仲良く語らっているようで、なんだか楽しくなる。

 現在の日本語の用法において「お友」が正しくないのは、当然承知だ。ただこの二十一世紀の社会で、「目上の人に付き従う」という本来の意味で「お供」の言葉を使う機会はあまりない。それよりも「ご飯のお供」「休憩のお供」「旅のお供」などの方が使用頻度が高い事実を鑑みれば、いまの我々が日常的に触れる「お供」たちは日々の生活に彩りを添えてくれるありがたい品々ばかり。ならば彼らと主従関係でお付き合いするのではなく、ここは暮らしの友達として接したいではないか。

 というわけで最近わたしは「○○のお供」の言葉を見るたび、「やっぱり友達でいたいよね」とこっそり呟(つぶ)いている。旅行鞄(かばん)の中で旅グッズたちが仲良く旅程の相談をし、休憩中にマグカップとおやつが「今日の仕事いつ終わるかなあ」と愚痴りあう光景を胸の中で描きながら、そこに混ぜてもらう自分を夢見る。=朝日新聞2023年4月19日掲載