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見知らぬ自分 柴崎友香

 家を出て駅に向かう途中、あれ? なんか歩きにくくない? と思った。下を見ると、右と左で違う靴を履いている。一瞬、どういうことかわからなかった。そんなはずはない、と立ち止まったまま三秒ほど見つめた。そら歩きにくいはずやな。

 このまま電車に乗ろうか。遅刻するかも。茫然(ぼうぜん)と足もとを見つつ、数秒の間に次々考えが浮かぶ。結局、引き返して履き替えることにした。行き先は坂が急なところで、「歩きにくい」は困りそうだった。かかとの高さが違う靴だったのだ。

 今までにも数多く、忘れ物やら間違いやら散々やってきたが、右と左で違う靴で出たのは初めてである。なぜ気がつかなかったのか不思議だ。玄関に座って、ショートブーツの内側のファスナーを上げた記憶はしっかりとある。右も左も黒のショートブーツで、ただし、かかとの高さもデザインも違うものだった。

 その前の週、久しぶりに作家の友人たちと集まったとき、一人が左右違う靴を履いてきた事件があったのだが、同じデザインの靴の色違いだった。本人は驚いていたが、それならありえるし、左右色違いの靴というおしゃれもなくはない。でも、同じ黒でも見た目が全然違う靴はなぁ。あのまま出かけていたら気づく人はいただろうか。

 何度思い出しても、ファスナーを上げたときになぜ違う靴だと気づかなかったのか、解せない。気づいた私と、靴を履いたときの私は別人なのではないかとさえ思ってしまう。

 SNSを見ているとときどき、間違えたものを持って出かけたエピソードが流れてくる。凍らせた飲みもののつもりが保冷剤だったとか、仕事で使う予定のものが子供のおもちゃだったとか。出先や職場で気づいた瞬間を想像してしまう。何が起こったかわからない、どこかで入れ替わったのではという感覚になったかもしれない。自分でもわからないことをたまにやって驚かせてもらえるのは、それほど困らないことの範囲なら、ちょっと楽しい。=朝日新聞2023年4月26日掲載