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「カティンの森のヤニナ」 歴史に埋もれた小さな声を聴く 朝日新聞書評から

評者: 澤田瞳子 / 朝⽇新聞掲載:2023年05月13日
カティンの森のヤニナ 独ソ戦の闇に消えた女性飛行士 著者:小林 文乃 出版社:河出書房新社 ジャンル:ノンフィクション・ルポルタージュ

ISBN: 9784309030975
発売⽇: 2023/03/28
サイズ: 20cm/236p

「カティンの森のヤニナ」 [著]小林文乃

 カティンとは、ロシア・スモレンスク近郊の森の名である。第2次世界大戦中の1940年、2万数千人のポーランド将校や知識人が殺害され、この地に埋められる虐殺事件が起きた。
 当時のポーランドはソ連とドイツに分割占領されており、両国はお互いが犯人だと主張。戦後もなお、決着はつかなかった。ロシア政府がスターリンの指示書を公開し、これを秘密警察による行為と認めたのは、ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ後の1992年。社会主義体制下に置かれていたポーランドではその間、カティンの名はタブーとされ、実のところ現在でも数千人のポーランド人の行方は不明なままである。
 そんな悲劇の犠牲者に、一人だけ女性パイロットが含まれていた。本作はその事実を知った筆者が問題の女性、ヤニナ・レヴァンドフスカの足跡をたどるとともに、ヤニナ一家の運命と近代ヨーロッパ史、そして現在の時代の変革までを射程に入れた歴史紀行である。
 日本人にとって、ポーランドという国は少々馴染(なじ)みが薄い。だが長い歴史の中で頻繁に他国の侵略を受け、それでもなお復活を遂げてきたこの国の歴史は、現在、ポーランドが活発にウクライナ支援を行っている事実からも分かるように、ヨーロッパ史の縮図である。それだけに本書を繙(ひもと)いた読者は必ずや、ヤニナたちの生涯が語る様々な歴史に驚くだろう。彼女の妹・アグネシュカはドイツ占領下のワルシャワで地下活動に身を投じたが、ヤニナがカティンの森で死んだ2カ月後、ナチスに逮捕・殺害される。片やソ連に、片やドイツによって殺された姉妹の姿は、他国に踏みにじられたポーランドの姿そのものであるかのようだ。一方でヤニナの夫はイギリスに渡り、ドイツを相手に戦うポーランド人飛行部隊として活躍する。彼自身は戦後、穏やかな余生を過ごしたが、それはあくまで幸運な例で、多くの亡命ポーランド人は第2次世界大戦終結とともに使い捨てられ、苦しい生活を強いられた。
 誰にも聞かれなかった小さな声をすくわんとする筆者の筆は精緻(せいち)で、いたわりに満ちている。だが一方で筆者は決して感情に溺れることなく、「ロシアが嫌いになったかい?」との問いに、そういう旅ではないと答え、「だって、それが戦争でしょ。ただの歴史ね」というホテルのフロント係の感慨を心に刻む。
 数々の小さな声もまた歴史の一部とすれば、我々は今、どこに立っているのか。確かに生きた人々を追うとともに、自らと現在についても顧みさせられる真摯(しんし)なる紀行である。
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こばやし・あやの 1980年生まれ。ノンフィクション作家、出版プロデューサー。BSフジのドキュメンタリー番組「レニングラード 女神の奏でた交響曲」を手がけた。著書に『グッバイ、レニングラード』。