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読了後の衝動 自分と「外部」、つなげたい 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年5月〉

絵・黒田潔

 ある作品を読み終えて、衝(つ)き動かされるということがある。たとえば東京都西部の日野市に行ってしまうとか。この日野という土地に行って谷(や)ノ上(うえ)横穴墓群というのを眺めてしまうとか。なぜそんなことを自分はしたのか。乗代雄介「それは誠」(「文学界」六月号)を読んだためだ。この作品内にも登場する言葉を用いれば聖地巡礼をしたに等しい。が、そもそも現代日本カルチャーの言う聖地巡礼とは何か? たぶん、読者や鑑賞者が接触した虚構(フィクション)とこの現実世界を、読者や鑑賞者じしんの肉体、行動を通して「つなげる」ということだろう。

 つなげたいと思ったのだった。「それは誠」の語り手は高二の“僕”で、登場するのも高二の男女が中心となる。そして行動をする“僕”たちの背景にあるのは修学旅行である。その意味では「現代の高校生たちの閉じた世界」の物語に思える。が、違うのだ。主人公の“僕”には複雑な家庭環境があり、しかしそれを「お涙頂戴(ちょうだい)」にはするまいとの意思がある。そして、そんな態度で周囲と交際するから、ある意味で他の人びとには心を開いていない。つまり高校生たちばかりが登場するといってもこの物語は“僕”と他者たちの接触を綴(つづ)る。そして修学旅行二日めの東京での全日自由行動に“僕”が日野に行きたいと言い、これに周囲が賛同したところから、周囲の他者たちは仲間へと、友達へと変じる。なにしろ語り手の“僕”が魅力的なのだが(しかも本人はその魅力に気づいていない、ということが一人称の語りのなかに浮かび上がる。素晴らしい技量だ)、それよりもきちんと他者を出していること、主人公の「外部」を存在させていることがこの小説を傑作にしている。

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 読了後にネット上の太極拳の動画を観(み)たのは多和田葉子の『白鶴亮翅(はっかくりょうし)』(朝日新聞出版)だった。というのも、この漢字四文字の書名は太極拳のフォームに由来する。そして「羽を広げる鶴」の動きは、物語の終幕にフワッとした力と開放感をもたらす。場所はベルリン、語り手は日本人の翻訳家(女性)で、このヨーロッパの都市で人びとと交流するものだから、彼女の日常は「外部」とのふれあいに満ちている。たとえば東プロイセン出身の初老の男、ロシア人の女、イギリスで大学教育を受けたフィリピン人。大きな出来事は起こらないが、しかし他者たちとの交わりの日々は飽きさせるということがない。あるいはまた、この文芸時評にも数百字の“漢字”が使用されているわけだが、それは「中国文化の一部」なのだとハッと気づかせられたりもして、読書する間、ずっと他者や外部との接触が持続する。

 日本人である作者そのものが完全に「外部」に出てしまった作品とも言えるのが、皆川博子の緊密なる文学的建築物、『風配図』(河出書房新社)である。十二世紀のバルト海交易が描かれているのだが、当然ながら日本人は登場しないし日本に関係する事物も現れない。そうした物語が日本語で書かれ、かつ衝迫力に満ちている。しかも小説という形式の外側にも折々出てしまい、複数のパートが戯曲の体裁で書かれる(それがまた読ませる)。エンディングでは四十年超の時間がいっきに俯瞰(ふかん)され、これも「外から、この世界(現在)を見る」行動につながる気がした。凄(すご)みばかりを感じる。

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 いっぽうでローラン・ビネ『文明交錯』(橘明美訳、東京創元社)ではフランス人の作家が俯瞰した歴史を反転させている。コロンブスのアメリカ発見、という軸のところで歴史をターンさせて、「インカ帝国がスペインを征服する」のだ。大事なのは、この小説が幾ばくか遊戯的に書かれている点で、だからこそ単純な政治的批判の相を離れて、風刺が前に出る。ユーモアも前景化する。そうすることで作者ビネは歴史の外側に立とうとしている。

 最後に大部の評伝であるジェラルド・マーティンの『ガブリエル・ガルシア=マルケス』(木村榮一訳、岩波書店)は、スペイン語で執筆したコロンビア出身の小説家のその生涯を、イギリス人のマーティンが英語で著した、との点ですでに「外部」から出発している。しかも私たちはこれを日本語で読むのだ。「母国の文豪」でも「同じラテンアメリカ圏の英雄的人物」でもないガルシア=マルケスというものを描き出せるのは、外側に立った人間だけなのだとわかる。この一冊を読むことは長い鉄道旅行のような経験となる。=朝日新聞2023年5月26日掲載