古典的な問いがある。大森林の内側で一本の巨木が倒れた。大音響がした。しかし周囲に人間はいなかった。この時、誰にも聞かれなかったその音は「あった」と言えるのか?あなたがこの問いにどう答えるのか自分はわからない。が、こう考えるとどうか。あなたは心中でいつも声を発している。自身に話しかけている。その声は他人には聞こえないから、あなたのそんな脳内の声は「ないのだ」と言っていいのか? そもそもあなたの記憶だって他者には簡単には伝わらない。だからあなたの記憶は「ないのだ」と言えるのか?
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岡田利規「中之島15の場所での物語」(「新潮」三月号)は大阪の旧淀川の二つの川に挟まれる中州=中之島に著者が滞在して執筆した文章を集めた、と著者は書いている。そしてどの文章も、中之島に実在する建物などの指定された場所で読むのがいちばん面白いとも書いている。しかしながら誌面で読む読者はそれら十五の場所には存在していない。すると何が起きるか。読者こそが、別な場所で、その「中之島のどこか」の場所を創造することになる。しかもこの作品の文章は非常に声に近い。あなたに呼びかけ、あなたを駆動する。そして一つの中州(島)に無限に近い広がりを孕(はら)ませている。
同じように閉ざされた島に多数の声を持ち込んでいるのが古川真人『港たち』(集英社)で、それは一族の最高齢者を中心点に配し、作品の中心軸に祖先霊を迎える“お盆”を配したことから成り立っている。たとえば中心点である大叔母の実妹と、作品の書き手であると読める孫世代の一人との交流は、祖母世代の記憶の内側にあっては川が流れている場所を、今は暗渠(あんきょ)として認識して歩む彼(書き手)を通して二つの時間と空間を「現在の島」の中という一つの時空に現出させている。のみならず、一つ前のお盆から次のお盆へとの本ぜんたいの構成は、人は生まれてから死ぬのだとの印象より「人間は死の内側から誕生して、やがて死へ帰る」とも感じさせる。その超神話的な読後感は特筆に値する。
一方、リアルな死は出さずに予覚的な“死”の脅威を間近に感じさせるのは井上荒野「お母さんが片づけておくから」(「すばる」三月号)だった。ここには三世代の女たちが登場して、視点はじき中学生になる孫娘にあるが、そこから母親が、また母親にとっては義母である祖母が描かれる。孫娘と母親はもうすぐ福岡の都市部の家へ移る。祖母は東京の西郊にある家に残る。すると、祖母の記憶、その家に残る記憶(と時間)はまるまる「片づけ」られることになる。さらりとした筆致で、にもかかわらず本物の恐(こわ)さが滲(にじ)んでいる。
ところで古典的な定義では家族とは「共に暮らす」集団だし国家とは「共に暮らす国民がいる土地」だ。一つの家を舞台に、そこに生まれた女性と彼女の誕生以前から敷地に存在していた“何か”を捉えたのが中西智佐乃の中篇(ちゅうへん)「橘の家」(「新潮」三月号)で、その“何か”こそは接触する女たちを「懐妊」させると信じられている橘の木である。が、要点はその木にはない。木の巫女(みこ)のような役割を負った主人公が、訪問する女たち――みな不妊に悩んでいる――に「受胎できるよ」という物語を授けている現実にある。この物語を信じるか信じないかは、声を聞くのか聞かないのか、誰にも感知されなかった音が「あった」と言えるのか否なのかに近い。しかも「人間が子孫繁栄を願う、しかし男女の役割は分裂している」との観点は、痛烈であるのと同時に、あなたにとって声や音は「あった」のかと根源的に問うかのような、ある種の直接性に満ちる。あなたはどちら側なのか?
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男女の性の差異、むしろ性欲のありようの差異から、国家史・家族史へと猛烈に突進してゆく魔術的物語がエカ・クルニアワン『美は傷』(太田りべか訳、春秋社)だった。一つの家族に焦点を絞れば、家族が根ざした土地の歴史、その土地を含んだ国家の歴史がわかるとの視線は、正論だとも言えるし暴論だとも感じられる。が、その暴力的な印象こそがこの作品の魅力で、そこでは物語が縺(もつ)れても「いや、物語というのは本来的に縺れるものなのだ」と説得的に反駁(はんばく)される快楽がある。ある種の「自撮り(セルフィー)」としてのインドネシア史が現出するが、そこには旧支配者のオランダや日本(大日本帝国)が被写体として映り込みもする。日本の読者は、持たなかった記憶を直視するだろう。=朝日新聞2025年2月28日掲載
