老い先が短いというのに、先のことが気になってしかたがない。
もともと過去には興味がなく、いつも明日からのことを考えているのだが、私が心配しているのは自分のこれからではない。もっと先の、日本の行方、世界の未来である。
書斎の机の横に本棚があって、すぐ手が届くところに何冊か、繰り返し読んだり懐かしく眺めたりする愛読書が置いてある。
中でも私がその内容をよく人に紹介するのは、内山節(たかし)『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(2007年、講談社現代新書・902円)という本である。
かつて田舎では、キツネに化かされたという話は日常茶飯事だった。
夜が暗く、人びとの心にアニミズムが生きていた時代である。
ところが全国で昔の暮らしの話を聞き取ってきた著者は、昭和40(1965)年を境に、ぱったりとそんな話を聞かなくなったという。
東京オリンピックが昭和39年、大阪万博が昭和45年。高度経済成長とともに日本の国は隅々まで明るくなり、自然は経済に踏みにじられて、人びとの心も「近代化」してしまったのだ。
私は信州の里山に住んでワインをつくっているが、ブドウ畑はかつて桑畑だった土地である。村は養蚕で栄え、日当たりのよい土地には見渡す限りの桑が植えられていた。
日本の養蚕がほぼ途絶えたのは、これもまた昭和40年以降のことである。この頃を境に明治以来日本の屋台骨を支えてきた農業を基盤とする養蚕製糸業は衰退し、その地位を工業に譲ったのだった。
昔の桑畑は、いまは耕作放棄地になっている。蚕室をもつ大きな家と白壁の蔵のあいだに、空き家が目立つようになった。隣組の仲間たちも高齢化して、子供たちも戻って来ないから、この村もそう遠くないうちに廃屋ばかりになるだろう。
1億2千万人余でピークに達した日本の人口は、いま急激に減少している。いずれは半分くらいになるかもしれない。鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(2000年、講談社学術文庫・1078円)を読むと、人口の推移とその背景がよくわかる。
英国やフランスの人口は日本の約半分。日本とほぼ同じ面積のドイツも、人口は日本より少ない。日本もそのくらいが適当なのかもしれない。
コンパクトシティーでもデジタルビレッジでもなく、昔ながらの村のまま、みんながそれぞれ自分たちの食べるものの半分くらいは田畑でつくりながら、慎(つつ)ましく和やかに暮らすことはできないだろうか。
広井良典『人口減少社会という希望』(2013年、朝日選書・1540円)は、人口減少社会への転換こそ、日本が明治期や高度成長期の「上昇への強迫観念」から脱出し、「本当に豊かで幸せを感じられる社会」をつくっていくチャンスではないかと述べている。
私は私の死んだ後のことが心配なので、新聞や雑誌の書評で人口減少や人新世の哲学や資本主義の将来に関する本が目につくとすぐに買い込むのだが、そのほとんどは内容が難しいので途中で挫折し、そのままつんどく本になっている。
いまそのいちばん上に載っているのは、次に読もうと思っている平野克己『人口革命』(2022年、朝日新聞出版・2310円)だ。
「アフリカ化する人類」という副題がついていて、なんでも21世紀後半は人類の半分がアフリカ人になっているそうである。
私は村を散歩しながら、数十年後の風景を夢想する。そこに誰が住んでいるにしても、またキツネにだまされる人が出るような、自然への畏怖(いふ)と想像力に満ちた世界が戻っているとよいのだが。=朝日新聞2023年5月27日掲載
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文筆業、画業のかたわら、千曲川ワインアカデミーを主宰。信州ワインバレー構想を主導。