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家具と壁の間の苦悩 津村記久子

 引っ越して二年半以上になるのだが、まだ段ボール箱が部屋に積んである。だらしないことなのは間違いないが、もう本棚を買いたくないな、となんとなく思ったのだった。どこに何が入っているのかはリストにしてあるのでそんなに不自由はない。自分が買える値段の棚はだいたいかなり奥行きがあって、本を前後の列に並べることになる。それで後列にある本の存在を忘れてしまう。本当によく読む本は本棚の外にだいたい出ている。そういう生活を九年ぐらいやって、しばらく本棚は欲しくないなと思うようになった。

 その段ボール箱の後ろに、ダブルクリップが入っている袋を落とした。焦燥はない。段ボール箱を動かして、そのうち拾ったらいいと高を括(くく)っている。子供の頃には考えられないことだ。小学生の頃は、学習デスクの後ろ側に物を落としてしまうことが恐怖だった。わたしはしょっちゅう物を落としていて、半泣きでデスクの下に潜って壁と背面の間に手を入れ、落とした物を必死に拾っていた。デスクの上部の本棚の上に横積みした物や、引き出しに詰め込んでいた物が落ちていたのだと思う。わたしのデスクは、右側に引き出しが三段あって、一段目と二段目の間に手提げ袋が入るぐらいのスペースが作られていて、そこにいろんな紙類を突っ込んでいたので、そこからもたくさん落ちていた。

 学習デスクの裏は、暗い崖下のようだった。子供の腕が入るか入らないかという狭い溝に手を入れて、指先を伸ばして触れることはできても摘むことができない物は本当につらい気持ちで諦めた。大事にしているものほど、デスクの裏は吸い込んでいったような気がした。

 あんな気持ちにならなくなって久しい。わたしは壁際にデスクを置かなくなり、本棚すら持たなくなった。本棚の裏に落ちた物を取るのも至難の業だ。もう壁と家具の間に手を入れるのは嫌なのだろうと思う。大人になったと本当に実感する時は、こういう選択肢を持てた時だ。=朝日新聞2023年6月14日掲載