「評伝 良寛」書評 日本思想の急所つく存在に挑む
ISBN: 9784623094349
発売⽇: 2023/06/01
サイズ: 22cm/555,12p
「評伝 良寛」 [著]阿部龍一
良寛さんと聞くと、手毬(てまり)をついて子どもとやさしく戯れる姿が思い浮かぶ。その一方、彼の詩歌は、水上勉や吉本隆明らによって特異な「思想」として読み継がれ、その遺墨は漱石や北大路魯山人をも魅了した。良寛とは宗教家、文学者、書道家、そのいずれにも回収しきれない多面体であり、いわば日本思想の急所をつく存在なのである。
本書はこの江戸時代後期の僧の生涯をつまびらかにした画期的な評伝である。著者は良寛の「やさしさ」を支えた強靱(きょうじん)な宗教的意志を明らかにする。越後の名家に生まれた良寛は、当初は荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)系統の経世の学、つまり政治学や経済学を学んだ。しかし、彼はエリートとして学問で身を立てる代わりに、出家を選び、日本各地を放浪した後に乞食(こつじき)僧として帰郷したのだ。
これは常識的には挫折である。しかし、この身をやつした「乞食行(ぎょう)」は、むしろ制度的にがんじがらめになった仏教教団から離れて、本来のブッダの精神に戻ることを意味した。民衆に食を乞いながら、彼らの葛藤を共有し、やがて彼らに幸福をお返しする「福田(ふくでん)」としての生き方――それは、商業主義を批判し「土に付く」ことを訴えた徂徠の考えを、ラディカルに実践することでもあった。
良寛は階級社会と化した曹洞宗や葬式仏教にではなく、そのおおもとの道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』に回帰した。さらに、都会の書壇に属さず、越後の民衆のために書を残した。形骸化した制度から飛び去るこの黒衣の「からす」のような生き方が、稀(まれ)にみる自在さを彼の書に与えた。子どもや女性との分け隔てない交流も含め、その仏教者の本道に立ち返る生は、後世の人間を静かに励まし続けた。
私の考えでは、本書は良寛論の決定版というよりも、その再評価の口火を切る力作である。良寛にはまだ多くの余白がある。読者はお説拝聴という態度でなく、著者の見解に挑むつもりで読むのがよいだろう。
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あべ・りゅういち 米ハーバード大教授。仏教学、日本思想史を研究。専門は密教史、仏教と文学・美術。