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鴻巣友季子の文学潮流(第4回)「M」「ハンチバック」「月」が問いかける文学と当事者性

©GettyImages

 小説や詩に自分の経験したことしか書けないのであればフィクションは成立せず、すべてが実録文学になってしまう。当連載の第2回に、「人間の生を象る表現行為はすべて、他者に成り代わり代弁するという行為抜きには成り立たない。アザーネス(他者性)との向き合いと理解、エンパシーこそが芸術表現の本質ともいえる」と書いた。虚構における当事者性と他者性はどのように関与しあうのだろうか?

 『さようなら、オレンジ』(ちくま文庫)で鮮烈なデビューを果たした 岩城けいの「アンドウマサト三部作」が『М』(集英社)をもって完結した。父の転勤にともない小学生のときに 日本からオーストラリアに移住した若い男性の苦闘の成長物語であり、移民文学と言える。

 作中でマサトが強烈な違和感を抱くことがある。高校で演劇に出会った彼は大学でも映画エキストラのバイトを続けているが、回ってくるのはおかしな日本人の役ばかり。在豪歴が長く、英語はネイティヴのそれなのに、その発音じゃホワイトイングリッシュ(白人英語)になってしまうから拙いジャパニーズアクセントで喋ってくれと注文されるのだ。

 海外エンタメにおける日本人の表象には未だおかしなものが多い。表象または代表のことを英語でrepresentationといい、たとえば、組織内のアンケートには「あなたの属する〇〇は△△においてwell representedされていますか?」という質問がよくある。あなたの属するグループは各所で存在感があるか/代表者を出しているか?ということだ。

 △△には「英米文学」「ハリウッド映画」なども入り得る。この場合、あなたのグループは文学作品や映画においてまっとうに扱われ、描かれていますかということで、マサトは当事者としてその点に怒っている。

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 今回芥川賞を受けた市川沙央『ハンチバック』(文藝春秋)を紹介するには、この「当事者表象」の問題は避けて通れない。最初に書くと、自他に向ける鋭利な批評眼やユーモアに底知れない力量を感じさせる作家だ。本作の語り手「伊沢釈華」と同じ筋疾患先天性ミオパチーを患い、早稲田大学通信教育課程では当事者表象の研究をし論文も書いたという(卒論 「障害者表象と現実社会の相互影響について」は小野梓記念学術賞を受賞)。

 釈華の背中は疾患のため右肺を押しつぶすほどS字に湾曲している。喉に穴をあけてカニューレを着け、発話は喉に負担がかかるので極力控える。両親が生前マンション一棟を改造して作ったグループホームの一室が、行動範囲のほぼすべてだ。有名私大の通信制に通う傍ら、小説投稿サイトにTL小説を投稿し、家賃収入はあるが風俗ルポのバイトをして、収入はすべて寄付。あるとき出産と育児ができない身体でも、妊娠と中絶ならできると考え、施設の男性ヘルパーに1億5500万円の謝礼で性交の話を持ちかける。

 最終部で突然健常者の語り手が登場し、あたかもこのテクストの直接的な当事者性を緩衝するかのような記述と、釈華を思わせる入所者が施設のヘルパーに手を下されたかのような暗示が出てきて、テクストは急にメタ的様相を呈する。

 釈華のルポに出てくる「ワセ女のSちゃん」も、ハンドルネームの「shaka/紗花」も、伊沢釈華も(作者とイニシャルが同じ)、オーサー・サロゲート(作者代理)的な部分はあり、そこは読者にもあえて意識させているのだろう。

 作者いわく、「『ハンチバック』は、私の当事者意識、そこから発せられる自己表象の欲求に駆られて構想した小説」であり、重度身体障害が社会から排除されている現状への「プロテストノベル」とも言えるという(「文學界」荒井裕樹との往復書簡「世界にとっての異物になってやりたい」より)。

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 文学史を見わたしても、四肢不随の重度障害をもつ登場人物は多くなく、そうした障害をもつ 作家が文学賞を受けた例はもっと少ない。書く者・書かれる者としてwell representedされているとは言えないだろう。だから市川沙央は――作者と作品は切り離して読んでほしいという書き手も多いなか――書き手の当事者性を明らかにして現れた。

 身障者に不利な状況には健常者優位社会の様々な「バリア」が関係している。市川は作中で「健常者優位主義」という語に「マチズモ」とルビを振っているが、読書ひとつ取っても障害者をはじき出す構造がある。釈華は言う。「私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた」

 読書がそんなにバリアフルな行為だと認識できていなかった意識の空隙を突かれる。一般に、読書には他の動的な娯楽より弱者にもやさしいというイメージがあるだろう。『ハイジ』でも足のわるいクララはよくご本を読んでいた。しかし読書のそうした内向的で静的な印象は、結局、健常者視点のものだということだ。

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 文学における当事者表象の話になると、必ず出てくるのが、「だれになにを書く資格があるか」といった議論だ。たとえば、うつ病や発達障害、戦争や被災の体験についてはどうか。

 再度言うと、実体験しか書けないのであればフィクションは成立しない。とはいえ、ある種の災いと苦しみに対して、この先は非当事者には入っていけないと、創作の筆が直感的に止まる/躊躇う不可侵領域の境界のようなものが各作家にはあるのではないだろうか。わたしは翻訳者としてそう感じることがある。

 J.M.クッツェーが「悪の問題」という短編(『エリザベス・コステロ』収録)で、自らのオーサー・サロゲートである老作家コステロを通して批判したのが、英国作家ポール・ウエストが描いたナチスによる絞首刑場面だった。その作「シュタウフェンベルク伯爵のきわめて豊かな時間」(未邦訳)には、「(ヒトラー暗殺未遂犯たちは)制服を剥がれ、…靴もベルトもなく、入れ歯も眼鏡もとられ、疲れはて身を震わせ、…恐怖でめそめそ泣き…このロープがぴんと張った瞬間、…老人のやせ細った脚に糞尿がどんなふうに垂れるか、老人の萎びたペニスが最後に一度どんなふうに震えるか」ということが何ページにもわたり詳述されている。

 コステロは、密室で行われた処刑のそんな細かい情報を非当事者がどこで見聞きしてきたのか? と憤る。「あの哀れな男たちをわが物顔で悶死させるとは、なんたる傲慢でしょう! 最期の時間は彼らだけのものであり、…(作家が)入りこんで好き勝手する権利はありません!」と。

 このくだりでコステロは「当事者性の侵害」に異を唱えている。想像力の妄(みだ)りがわしさのようなものに。非当事者の書き手が当事者の痛みを仮構することに。これは所謂「文化盗用」の問題とは異なる、書くもの書かれるものをめぐるもっと本能的な禁忌感ではないか。

 とはいえ、声をもたない虐げられた者の痛みを描くことこそが文学の使命ではないのか?という声は当然あがるだろう。

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 ここで、重度障害者と介護施設職員の内面に迫った辺見庸の『月』をとりあげたい。非当事者の書き手が想像の力で行けるところまで行こうとした作品だ。作者はリハビリのため介護老人保健施設に通所しながらつぶさに観察したと言い、「介護をする側の負担は相当なものです。介護は、する側、される側、どちらが被害者なのか分かったものではない。双方がどのような過程で傷ついていくのか、我々はそこと向き合わなければならない」と語っている(「日経Gooday」インタビュー)。

 性別も年齢も不明の「にくのかたまり」として登場する入所者の意識を通して一人称文体で書かれている。この「きーちゃん」は目がほとんど見えず、話せない。上下肢が麻痺して寝たきりの状態で、「もともとそう」なのだという。そうした人物の意識や思考を作者は代弁する。

 きーちゃんは「無」から来て「無」にむかっているという。それに対して、最後に入所者たちを殺傷することになる介護職員の「さとくん」はつぶやく。「まったくね…… あんたは、なんなんだい? いったい、なにから生まれてきたんだい? なんのために?」

 ほぼ全編、きーちゃんの独白のはずだが、放肆(ほうし)、尾籠(びろう)、叛(そむ)くなど難しめの漢字も多用され、「『かねにならないことはくだらないことであり、 非実際的で、観念的である』とフリードリヒ・エンゲルスが十九世紀イングランドのブルジョア階級について、ぜひにも変革すべき状態として記したことは……」といった学知と語彙が淀みなく出てくる。一人称文体に外部視点をトリッキーに混在させている感じだ。

 また、きーちゃんの”割れ”と称される健常者の分身男性「あかぎあかえ」が途中から急に登場し、きーちゃんに見えないことも目撃したりする(ちなみに、『ハンチバック』のラストに突如、健常者の語り手が現れることで賛否を呼んでいるが、この存在も主人公の”割れ”と捉えてもいいのではないか)。

 こうした技法に、非当事者による物語仮構の恣意性を感じる読者もいるかもしれない。しかし『月』を映画化した石井裕也監督は、作者の”想像する覚悟”を絶賛する。辺見庸が映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の最後の絞首刑場面で頸骨の砕ける凄まじい音が充分再現されていないことを批判した一件にもふれ、「いかなる部外者の目も届くはずのない密室でのこの『音』を執拗に想像しようとし、その残響がおさまり静寂が訪れるまでのすべてを聞き洩らすまいと耳をそばだてようとする辺見さんは、やはり圧倒的に優しい人なのだと僕は思う」と、『月』の文庫解説に書いている。

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 優しい介護職員だったさとくんは重労働のなかで心を屈折させ、身障者排除の思想へと傾斜していく。その過程で重要になるのが、「自己決定権」という概念だ。話しかけても意志が通じず、応答もない入所者たちに対して、さとくんは「かんぜんな〝 心失者〟にはなにができるか……。かれらは自己決定ができない。やりたくても自殺もできない」と考えるようになる。そして最後には各室を訪ね、「こんばんは、ぼく、さとくんです」「あなた、こころ、ございませんよね?」と尋ねては犯行に及ぶ。

 市川沙央は前述の往復書簡で、近代人が金科玉条としてきた自己決定権について、こう懸念している。「しかし、近代社会が自己決定権の印籠の元に、明晰な自己意志を持つ標準的な身体のみを社会に揃えることを目指しつづけ、不良品の排除を進めるというのならば、宗教や素朴な道徳の他に何をブレーキとして頼んだらいいのだろう」と。そうした社会状況のなかで釈華が書きつけるセクシャル・リプロダクティヴ・ヘルス/ライツ(性行為と生殖に関わる健康と自己決定権)にも関わる記述はとくに重要みを帯びる。

〈妊娠と中絶がしてみたい〉
〈私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう〉
〈出産にも耐えられないだろう〉
〈もちろん育児も無理である〉
〈でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから〉
〈だから妊娠と中絶はしてみたい〉
〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉

 釈華にはセックスする自由と自己決定権が当然あるが、その先は倫理的判断が分かれるだろう。書き手の重度障害者としての当事者性なくしては、強い反発を引き起こす記述かもしれない。

 現在の日本では、妊娠した者には中絶の自己決定権がある。辺見庸の『月』では、さとくんのこのような想念が写しとられる。「なにもしないくせに、 きれいごとばかりをいう。『生きるに値する命/生きるに値しない命』の区別などないという」「じっさいには、ふたつの命を、おきがるに峻別しているんだ。新型出生前診断で異常がかくていしたひとのうち九六パーセント以上が中絶。もう常識だ」と。

 だから、自ら選別した命を亡きものにしていいと彼は考えた 。

 他方、『ハンチバック』の釈華はこう言う。「殺す側と殺される側のせめぎ合い」の末、「生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺し(中絶)は結局、多くのカップルにとってカジュアルなものになった」と。だから、彼女は「殺すためにも孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?/それでやっとバランスが取れない?」と考えるのだ。

 さとくんと釈華は対抗的な立場にいながら、どちらも人工妊娠中絶を足がかりに結論を出し、行動を起こす。ひとりは殺傷へ、ひとりは妊娠を経た堕胎に向けて。

 釈華は続けて、「本を読むたびに背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた」と言い、ならば、「生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう」と問いかけてくる。

 この問いに即答することはむずかしい。死を決定づけられた生を宿すこと、殺すために孕むことへの忌避感を感じずにはいられない。だが、その問いが、生きるために身体が壊れてきたと言う当事者から発せられたとたん、答えを躊躇う。

『ハンチバック』は、”非当事者が他者を書く”ことを前提としたフィクションの主流に、当事者性を露わにして乗りこんできたデビュー作だ。辺見作品のような非当事者による小説へのレスポンスの要素も生じ得る。いまの文学界は、この生身の存在感にどんな変形を被るだろう。荒井祐樹が市川に「どうか『小説』という概念ごと文芸界の背骨を歪ませてやってください」と書いたのはそういう意味だと思う。

 書き手は他者の物語をいかに仮構し得るか、また、当事者が自らを表象することの責任といった議論がより活発化するだろう。それは、文学になにができるかという問いにほかならない。他者の痛苦に寄り添うことと、その声を代弁すること、この間に横たわる道程で、文学は形をなした。己の似姿を保管/補完することから、べつのフェイズ に移ったはずなのだ。