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歯ブラシとの旅 澤田瞳子

 知らない場所に行くのが大好きなので、遠方での仕事があるといそいそ荷造りをする。ただ私は旅行の荷物が少なく、最低限のものしか持参しない。一番かさばるのは間違いなく、旅先で読む本だ。このため四、五日の旅でもほぼリュック一つで済むが、そんな中で最近、本以外にこれだけは持って行くものが追加された。それは歯ブラシセットだ。

 最近はどの宿にも歯ブラシが設置されている一方、環境保全の観点から使い捨て品の利用は最低限にとの運動も盛んだ。だが私が歯ブラシを持参するのは、環境保全意識によるものではない。普段、自室に籠(こも)ってただただパソコンと資料に向き合う身にとって、自宅以外での宿泊は非日常。好奇心旺盛な私は、そんな非日常が非常に楽しい。ただそれでも心身のどこかでは密(ひそ)かに、環境の変化に落ち着かぬものを感じているのだろう。知らないベッドに寝ることは好きな癖に、熟睡はできない。ならば少しだけ普段の生活を持参しようと考えた。部屋着、枕元のぬいぐるみ。枕も挑戦したがこれはあまりにかさばるので、一度で諦めた。リュック一つの身軽さにもかかわらず、片手には枕を入れたバッグとは、私の美学に反する。かくして行き着いたのが歯ブラシというわけだ。

 別にそれを抱いて寝るわけではない。ただ就寝前に見慣れたそれを目にするだけで、初めてのホテルの部屋がほんの少し落ち着いた光景と映るから我ながら不思議だ。

 考えてみれば、人間は常に何かにつながって生きている。家族、仕事、行きつけの店、SNS……「日常」も同様で、普段とは異なる暮らしに憧れはしたところで、我々は日常につながることで、日々の心の平穏を経ている。ならばそれを一刀両断に切り離すことは実は案外難しい行為なのかもしれない。

 だから帰宅すると、まず歯ブラシセットを洗って乾かし、楽しかったなあと思いながら洗面所に片づける。小さなプラスチックの道具が、日常と非日常に大切な橋をかける。=朝日新聞2023年9月27日掲載