三月十三日に死去した俳人・黒田杏子の最終句集『八月』(角川書店)が刊行された。最晩年十一年ほどの三百九十一句が入る。ひもとくと、これはまさに生涯の索引(インデックス)だ。
私は彼女を「黒杏(くろもも)」と呼び、なにくれとなく相談にのった。いうならば黒衣である。『八月』を読むと、黒杏の全貌(ぜんぼう)が見渡される。中に一カ所、黒杏のクレバスがしずかに横たわる。次の三句が並んでいるのだ。息を呑(の)む。
疎開の子生きて斃(たお)れて終戦日
邯鄲(かんたん)の熄(や)む一瞬の間なりけり
月に伏すわが身禱(いの)られ護(まも)られて
作句日は句集では明らかではないが、初出の月刊「俳句」(二〇一五年十一月号、角川書店)にあたると「邯鄲」の句が二〇一五年九月十七日とある。黒杏はこの直前の八月十二日に、脳梗塞(こうそく)で斃れている。邯鄲の句は黒杏の臨死体験の深淵(しんえん)をうかがわせる迫真の作ではないか。玲瓏(れいろう)たる邯鄲が鳴きやむ「一瞬の間」に人のいのちの黒白が決まる。
幸い黒杏の状況は、句集未収録句〈絶望は希望月齢の四・八〉のように好転した。が、以後、蘇生の思いがいちだんと強くなる。『八月』には、このような句が収録されている。
月に問へ生きて真澄の月に問へ
はるかよりきし花びらのかの世へと
秋風を踏み秋風を聴くしばし
わが句作の真如(しんにょ)はなにか。死者との共存の世界を捉えることができるのか。そんな思いがほとばしっている。
さらに、句境の深まりを示す二句。
狐火(きつねび)の紅蓮(ぐれん)終生まなうらに
引き返す道無かりけり稲光
華麗で饒舌(じょうぜつ)なフラットな句へ狐火(鬼火)が立ち、稲光が走る。ゆっくり急がねばならない。死が迫っていたのである。
◇
九月十七日、祭壇に掲げられた黒杏の遺影は、偲(しの)ぶ会に参集した誰よりも輝いていた。主客は転倒し、「あなた、お元気?」とひとりひとりに語りかけている。
会は黒杏の俳誌「藍生(あおい)」の主催であった。八十四歳で亡くなった黒杏が創刊以来三十三年間、もっとも力を尽くしたのが、開かれた俳句コミュニティーの形成であった。雑詠集に黒田選はあるが、同人制を設けず誌友は平等というのが、「藍生」の集団だった。
黒杏の進取な気性が金子兜太の戦争体験の語りを相伴し、瀬戸内寂聴の無頼に心酔した。
黒杏の明晰(めいせき)さは情に溺れないところにあった。無常感がなかった。私はそれを「黒杏の流体感」と称した。三十歳の春以来、日本列島の桜花巡礼や四国遍路、坂東観音札所巡拝などをやりぬく。四十歳代の三回にわたるインド・ネパール行など寂聴尼やインド研究家などプロ集団に加わったおのれの業を問う旅の体験は黒杏の感性をさりげなく思索的にした。(寄稿)=朝日新聞2023年9月27日掲載