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黒柳徹子さんインタビュー 武井武雄さんの絵で完成した奇跡の絵本「木にとまりたかった木のはなし」

木の上って、気持ちがいいものです

――『木にとまりたかった木のはなし』は、樹上で気持ちよさそうにおしゃべりする鳥たちを羨ましく思った木が、「ぼくも木にとまってみたい」と、鳥たちに運んでもらうお話。初版刊行は1985年で、もう40年近く前の作品ですね。思いついたきっかけは何でしょうか。

 ただ、あるときふっと「木も、木にとまってみたいんじゃないかなあ」と思って。そんなお話を書いたらどうかなと頭に浮かんだんです。

『木にとまりたかった木のはなし』(河出書房新社)より

 私は、小さい頃から木のぼりが好きで、よく木の上から遠くを見て、行ったことも見たこともない国のことを想像しながら何時間も過ごしていました。通っていた小学校(今の自由が丘の駅前付近にあった「トモエ学園」)の校庭には、みんながそれぞれ“自分の木”を持っていて、私も休み時間はずっとそこにいたんです。

 校庭を挟んで、向こう側の木の子に「おーい!」と呼びかけたり、下の砂場で遊んでいる子とおしゃべりしたり。私の木は柵のすぐそばにあって、柵の向こう側は、九品仏(浄真寺)へ歩いて行く人たちが通る道だったので、木の上から、道を通る人に「おばさーん!」と手を振ったりなんかして……楽しかったですね。だからお世話になった木にも、いろんなものを見せてあげたいと思ったのでしょうね。

――『窓ぎわのトットちゃん』でも親友の小児麻痺の「泰明ちゃん」と木のぼりをする場面が印象的でした。2023年冬公開のアニメ映画にも、木のぼりのシーンは出てきますね。

 私の木は、桐の木で、幹がつるっとしててちょうどよく二股に枝が分かれたところがあり、座れるような木だったんですね。だから泰明ちゃんを招待しようと思ったときも、大変でしたけど、ひっぱりあげて乗せてあげられないことはなかったんです。泰明ちゃんと二股の枝にそれぞれ向かい合って座って「こんにちは」ってできるくらいの……いい塩梅の木でね。

 絵本の中で「ああ、木にとまるのって、きもちがいい!」と鳥や木が言うんですけど、本当に木の上って気持ちがいいものです。木のちょっと高いところにいるのは、そりゃあ、地面に立っているのとは全く違う感じです。いろんなものがよく見えるし、風の感じもね。

――「木は、空をとびまーす!」という言葉のリズムも軽やかで、黒柳さんの声で耳に聞こえてきそうです。カラフルな鳥、異国風の船も美しいですね。

 鳥たちが、みんなそれぞれお花や楽器をくわえていたりするの。可愛いし、洒落た感じがしますよね。私はずっと武井武雄さんの絵のファンだったので、まさかこんな絵本ができるなんて……と、作ることができたときは嬉しかったです。

『木にとまりたかった木のはなし』(河出書房新社)より

武井武雄さんが「描くよ」とおっしゃった

――武井武雄さんは1894(明治27)年生まれ、戦前から『子供之友』『コドモノクニ』などの児童雑誌に絵を描き、「童画」という言葉やジャンルを創造した方でもありますね。黒柳さんはいつから武井さんのことをご存知だったのですか。

 いつからかなのかはわかりません。「武井武雄という人は可愛くておもしろい本を描く人だ」というのはだんだんわかっていったんだと思います。お名前もおもしろいですしね。おそらく『ラムラム王』とか絵本も見ていたんじゃないでしょうか。

『木にとまりたかった木のはなし』(河出書房新社)より

――武井さんに初めてお会いになったのは?

 1983年の1月に、武井先生の<刊本作品>の頒布会(*)があってね、私は会には入っていなかったんだけど「またおもしろいものを先生が作ったらしいよ」という話を聞いて、飯沢匡さん(*)に連れてってもらったんです。皆さんがきれいな本を配られるのを眺めながら「ああ、私も知っていれば入ったのになあ」と思っていました。

*頒布会:武井武雄さんが行った<刊本作品>の会員への新作を渡す会。1983年1月15日に開かれた日本橋の洋食屋たいめいけんでのNo.137『ABC夜話』が生前最後となった。

*飯沢匡さん:黒柳さんが初めてラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」でトン坊の声優をつとめたときの脚本・演出を担当した劇作家、小説家。以来長く交流があった。

――武井武雄さんは、執筆、挿絵、造本設計を手がけた自費出版のミニチュアブック<刊本作品>の制作をライフワークとしていたそうですね。「本の宝石」と称され、頒布会に入りたい人の順番待ちの人々は「我慢会」と呼ばれたとか。

 そう、ずっと待っている人たちも多いからとても入れないんだけど。でもそのとき「先生、私、絵本を書こうと思っているんですけど、絵を描いていただけますか」ってうかがったんです。「木が木にとまりたかった、というお話に、絵を描いてほしいんですけど」と言ったら、思いがけず「うん、いいよ」ってご機嫌でおっしゃったんですね。

 「キツツキとかリスとか、色々出るんですけど」「ああ、いいよ、いいよ」と。「ペンギンも出るんです」「お安い御用」って快諾してくださって。「じゃあ、お願いします」と言って帰ってきて、もうその夜は嬉しくて眠れないくらいでした。「どんなふうに絵を描いてくださるだろう」とすっごく楽しみだったの。

 皆さんは武井先生のことを尊敬しているから誰もそんなこと思いつかなくて、後から飯沢先生が「よくもまあ大胆にも、武井先生に絵を描いてくれますかなんて聞けたものだ」とおっしゃいましたよ(笑)。

 そのとき武井先生はお元気だったんです。木が木にとまりたいって、こんなお話なんですと説明して、「いいよ」っておっしゃったとき、「おもしろい話だもんね」だったか「可愛い話だもんね」と褒めてくださって。あれだけたくさんのものをお書きになった先生が、そんなふうに言ってくださって、とっても嬉しかったです。

 頒布会の後、1週間くらいして先生のところに伺おうと思ったら、お具合が悪いみたいと聞いて。それから2週間ぐらいであっという間に亡くなってしまいました。

まさか木が船に乗っている絵があるなんて

――当時、武井武雄さんは88歳だったとか。絵にとりかかる前に亡くなってしまったのですね。

 びっくりして残念で……。お嬢さんの武井三春さんに「先生に絵本をお願いしたら、『いいよ』っておっしゃったのに」と嘆いたら、三春さんが「(頒布会後)うちに帰ってきて、『黒柳くんの絵本を描くんだよ』とすごく喜んでいましたよ」と教えてくださったの。私はそれを聞いて、描いていただけなかったけど、喜ばれていたと知っただけでよかったと思っていました。

 でも本当はがっかりしてしまって、木のお話を諦めようかとも思ったんです。他の方に……とは考えなかったですね。1年ぐらい経った頃、「やっぱり、なんとかして絵本にできないかしら」と三春さんに相談したら、三春さんが「木や鳥や海ならたくさんある」と。

 そのときはまだお話を文字にしてなかったので、じゃあ急いでFAXしますと言って、文章を書いてFAXしました。そしたら、お話にあう絵は、大体全部あるっておっしゃるんです。三春さんは、武井先生の描かれたものをよく整理していたから、全部、それぞれのページにぴったりの絵を探し出してくださいました。

 しかも、「すごくいいのがあったわよ」って……。それが19ページの、船にとまった木の絵です。見せてもらったときは、驚きました。こんな偶然ってあるんでしょうか。海上の船に、マストみたいに木がとまっている。まさに私のお話の通りで、こんな絵を考えつく画家がまさかいるなんて、それが武井先生だなんて……今でも信じられません。

『木にとまりたかった木のはなし』(河出書房新社)より

――ぴったりの絵が、既にたくさんあったのですね。

 リスもキツツキも私の頭の中にあったものだし、先生の描いたものにも、あったんですよ。あえて言えばペンギンのところだけね、絵の上から葉っぱのワッペンを描き足すわけにいかないから、ちょっと文章と違うんですけど(笑)。でもそれ以外は、まるで武井先生があらかじめ文を見ていたかのような絵がたくさんありました。

 最後に三春さんが「父の理想の女性を描いた絵がある」と出してくださった女の人の絵がありました。「黒柳さんに似てると思います」と言われてみると、確かに、服の感じやら雰囲気も似ているし、髪型も玉ねぎ頭みたいね(笑)。見たとき、もう、最後の絵はこれにしようって思いました。

 それで、「これは、木のぼりが好きで、木にとまってみたいとおもってる 女の人がつくった おはなしです」と締めるのにいいなあと思って、使わせてもらったんです。

『木にとまりたかった木のはなし』(河出書房新社)より

父が毎晩本を読んでくれた

――1980年代の黒柳さんは、「徹子の部屋」や歌番組「ザ・ベストテン」の司会、ラジオや劇の出演もあり、非常にお忙しかったと思います。そのときにあえて絵本を作ろうとしたのは、本が好きだったのでしょうか。

 本は好きでした。もともと私がテレビの世界に入ったのは、絵本を上手に読めるお母さんになろうとして、NHKの放送劇団に入ったのがきっかけだったんですよ。

 本好きになったのは父のおかげでしょうね。寝る前にベッドに入ると、いつも父がいそいそと本を抱えて読みにくるの。色々読んでもらいましたけど、イタリアの児童文学『クオレ』なんかはよく覚えています。ただ、父があまり上手じゃなくて(笑)。つっかえ、つっかえで、私ならもうちょっとうまく読むなぁ、なんて思いながら聞いていたんです。

 それでも、毎晩どういうわけか父が一所懸命読んでくれたのは、子ども心に嬉しかったのね。そんなに子煩悩っていうタイプじゃないの。バイオリニストですから、バイオリンが一番、母のことが大好きで母が二番。でも私が寝る前の本を読むのは自分の仕事のように思ってくれていました。父が戦争に行くことになったときは、「ああ、もう読んでもらえないんだ」と悲しかったです。

 戦後、私は疎開先の青森から東京へ戻ってきて女学校に通うようになり、父は5年間シベリアで虜囚になっていたけれど、なんとか無事に帰ってきて、また一緒に暮らせるようになりました。

子どもたちの幸福のために

――NHKでテレビ女優となった黒柳さんは、全国の子どもたちの圧倒的な支持を得たラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」以降、「チロリン村とくるみの木」「ブーフーウー」など、たくさんの子ども番組に関わっていくことになりますね。ユニセフ親善大使としての活動も、ずっと子どもたちの幸福がテーマにあるように思います。

 女学校を出たあと、音楽学校へ入って声楽を学んでいたとき、学校帰りに偶然、アンデルセン原作「雪の女王」の人形劇の張り紙を見かけました。「人形劇ってなんだろう」と思って、銀座の交詢ビルというところまで行ったの。そしたら、もう、びっくりするほど子どもたちがみんな身を乗り出して見ていました。

 舞台裏はどうなっているんだろうとステージ下をのぞきに行ったら、板の後ろで、両手に人形をはめたお姉さんたちが膝立ちで、一瞬も休まず右へ左へ動き回ったり跳ねたりしながら、喋って歌ってるんです。生まれて初めて見た人形劇に、心を奪われました。「私も子どもに人形劇をしてあげられるお母さんになれたらどんなに素晴らしいでしょう」って思ったくらい(笑)。

 後からわかったのですが、それは影絵で有名な藤城清治さんの劇団で、人形も演出も藤城さん。音楽は芥川也寸志さん、バックコーラスで生で歌っていたのは、当時慶應大学の学生でまだデビュー前のダーク・ダックスでした。あの感動と、夢中になって見つめていた子どもたちの姿は、私のひとつの原点として心にあります。

1980年代当時の黒柳徹子さん=本人提供

 『木にとまりたかった木のはなし』は私が書いた初めての絵本です。他に、絵本を作りたいってそんなに思った覚えはないから、ちょっと特別な本ですよね。子どもたちに読んでもらいたいと思って、子どもたちのことを考えて作ったのは間違いないと思います。

――2023年は武井武雄さん没後40年でした。復刊された絵本は、初版より絵が大きくなったページもあり、色も鮮やかに再現されていますね。

 こんなすばらしい絵を描く人がいたって、あらためて皆さんに知ってもらいたいですね。武井武雄さんの構図、色彩、バランスの美しいものを見て子どもたちはまた大きく育っていくでしょうから。

 絵本の中に1枚だけ、文字のない、人魚の絵だけのページがあります。この絵は、私の思いと、木の持っている思いとがここで一緒になった気がして「絵として好き」と入れたページです。

 子どもって「好き」が直感的にわかる、敏感に感じ取るから、きっとわかってくれるんじゃないかしら。武井先生もこんなふうに復刊されて、「よかった」ときっと喜んでくださるんじゃないかと思います。