絶望しないよう「全力」から逃げて
取材は彼女が夫と子どもと暮らす自宅で行われた。案内された執筆場所は子ども部屋の一角。積み木やレゴやIKEAの巨大なパンダのぬいぐるみ、室内用トランポリンなどを跨いでようやく机にたどり着く。
「子どもがまだ乳児だったときには、夜泣きにすぐ対応できるように寝室の隣のウォークインクローゼットにミニこたつを置いて書いていました」
出版社で編集の仕事をしていた彼女には、小説家になりたいという夢があった。20代後半から応募を始め、わりと最初の方で「深大寺恋物語」審査員特別賞を受賞。
「それですっかり自分は小説家になれるもんだと思ってしまったんですよね」
ところが、並行して刺繍作品で個展を開いたり、映画監督を目指して映画学校に入ったり、あっちがダメならこっち、こっちがダメならそっちというように、ちっとも腰を据えて一つのことに絞らない。当然の結果として、小説もよくて1次通過止まり。
「色々手を出したのは、夢みがちな性分もありますが、それ以上に自分に絶望するのが怖かったんだと思います。やり切ってダメだったら本当にダメってことじゃないですか。だから、決定的な挫折がくる前に別のことに逃げてしまう。ただ、いつも挑戦することが『書くこと』に寄っていくんです。刺繍に詩を合わせたり、映画も脚本コンクールに応募したり」
憧れの作家からの執筆依頼
そんなとき、仕事で付き合いのあった角田光代さんから、文芸誌「早稲田文学」に小説を書かないかと誘われる。「新人賞のその後」というテーマで書き手を探していたのだ。
「私は角田さんの『愛がなんだ』に衝撃を受けて、小説家を目指しました。その人から書いてと言われるなんて夢のよう。この時ばかりは小説に全力投球しました」
渾身の一作を仕上げ、それを読んだ編集者から声がかかった。が、新作を書いては見せるものの、一向にゴーサインは出なかった。ほどなくして、第1子妊娠。編集者からは「しばらくは育児に専念したら」と諭された。
「それでもしがみつけたらよかったんですけど、大きな賞をとってないことに引け目を感じていたし、子どもを産んだら自分の興味も力も全部そっちにいってしまって。ここでまた諦めるのか、って気持ちと、しょうがないよね、っていう気持ちの間でずっとグズグズしていました」
第2子も生まれ、仕事・育児・小説の三足のわらじは限界に。前後して、大切な人との突然の別れが続いた。
「こうして生きることができているのに、言い訳ばかりしている自分が心底イヤになりました」
受賞者との違いに打ちのめされて
40歳を目前にして17年勤めていた会社を辞め、ライターとして働きながら公募に挑戦。1年経った頃、この連載、「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」を始めた。
「自分が落選した賞の受賞者にインタビューすることも何度もありましたが、不思議と嫉妬はありませんでした。受賞作を読み、それを書いた人の話を聞くと、この人が賞をとれたのは必然だなと納得するばかりで。取材すればするほど、私はこの人たちのように真摯に小説に向き合えていない、こんな中途半端な自分が受賞できるわけがないと感じてきて、このまま〈小説家になりたい人〉を自称していていいのかと、根本的なところから迷い出してしまいました」
会心の出来だと思っていた作品が文藝賞の1次も通らなかったことが決定打となり、デビューもしてないうちにスランプに。それでもなんとか気持ちを立て直し、林芙美子賞、R18文学賞に応募し、それぞれ1次通過、2次通過と、成長のあとも見られたが受賞には至らなかった。
そんなとき、連載のスピンオフとして、小説家になれない情けない日々を綴っていたnote「小説家になりたい人(自笑)日記」が編集者の目に留まり、エッセイ本の打診が来た。
「小説家を目指す上では先にエッセイでデビューするのはマイナスかもしれないけれど……と編集さんは恐る恐るの申し出って感じだったのですが、私はもう嬉しさしかなくて」
それは名前さえ世に出れば、小説家でなくてもよかったということ?
「いえ、これはエッセイを書きながら気づいたことなんですが、私じつは有名になることにはそこまで興味がなくて。私の欲って自己顕示欲じゃなくて承認欲求だったみたいなんです。自分の思いついたこと、作ったものに対して、よその人に認められたかった。だから、私の書いたエッセイが1冊の本となって本屋に並び、私の友だちではない人に手に取ってもらえるなら、それって夢が叶うことだって思ったんです」
このままの私で小説を書く
その後、noteにアップした記事「子どもを産んだ人はいい小説が書けない」が村山由佳さんの目に留まり、「凄くすごくよくて泣いてる」とXで紹介され、注目を浴びた。
「〈子どもを産んだ人はいい小説が書けない〉はある人から実際に言われた言葉。悔しくて悔しくて一気に書き上げたのですが、いつもの投稿と同じく埋もれてしまうんだろうと思っていました。それが、インタビューの仕事で繋がった小説家や文芸ファンの方々が拡散してくれ、村山さんまで届き……。うれしかったのは、子どものいない村山さんが共感してくださったこと。ママとしてではなく、小説を目指す者として書いた文章だったので、村山さんが当たり前にそう受け取ってくれたことに、このままの私で書いていいのだと認めてもらえた気がしました」
エッセイストデビューが決まり、「何者か」になる夢は叶ったともいえる。もう小説家は目指さないのだろうか。
「いえ、今でもなりたいと思っています。連載でお会いした受賞者に『小説家になって文壇の仲間入りだ!』みたいな人は一人もいなかった。みなさん、『小説家になりたいというより、小説を書きたい』とおっしゃった。小説を書き続けるためのシステムとして、受賞を目指し、結果的に小説家の肩書きが付いてきたという人ばかりだったんですね。その話を聞くにつれ、私もそうだなあ、と。厳密にいうと〈小説家になりたい人〉じゃなくて、〈小説を書き続けるシステムを手に入れたい人〉だったんだなって。何より、まだ書きたい小説がこの頭の中にあるんです。そして書いたからにはやっぱり自分以外の人に読まれたい。これからは私なりの方法で、小説家を目指したいと思います。それと同時に、もっともっとエッセイの腕も磨いていきたい」
でも、二兎追う者は一兎をも得ずっていうじゃないですか。
「これは怖い気づきでもあるのですが、どうやら私の人生の目的は、『得る』ことではないようなのです。追いかけていること自体が目的。これからも思いつくまま小説を書き、エッセイを書き、もしかしたらまた刺繍で詩を書くのかもしれない。そして結果、何一つ極められないのかもしれない。文学史に私の名は残らないでしょう。でもたぶん、死ぬ直前に思うんです。あー、楽しかったなあって」
それは壮大な言い訳? それとも本心でしょうか。
「わからないですね。人生の意味って結局、後付けでしかない。この先も私はたぶん、『これって全部ただの言い訳かな』『いや、これでいいんだ』という自問自答を繰り返すんだと思います。でも全部がウソってこともないはずだから、最終的には『あんたはそれでよかったんだよ』って言ってあげると思います。私、自分に甘いから(笑)」
【次回予告】次回は、第129回文學界新人賞を受賞した福海隆さんにインタビュー予定。