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○番目のカギ 澤田瞳子

 仕事場への通勤に使う自転車のカギを落とした。幸い、予備があるので、すぐには困らない。ただこの手元の一本まで失(な)くしたら、と途端に不安になった。

 わたしの自転車は母のおさがりの電動式で、車体が重い。自転車で出かけた先で最後のカギを落とせば、一人で抱えて帰るのは難しい。

 とはいえ、手元のカギの本数ぐらい、譲り受けたときから分かっていた。こんなに不安を覚えるなら、なるべく落とさぬよう気をつけるべきだったのに。「まだ予備がある」と思っている時は、残りの本数に考えを致さず、一本を落とした途端、急に不安になる。我ながら勝手な話だ。

 近所の自転車店さんで聞くと、鍵番号からスペアが作れるという。

 「発注は二本単位だけです」

 計三本も要らない。一瞬、そう思った。しかしそれでは次にカギを落とした時、同じことを繰り返すだけだ。二本とはむしろありがたい、と考え直して、取り寄せをお願いした。

 十日ほどしてスペアキーが届き、わたしはその中の一本を実家に預けに行った。万事雑駁(ざっぱく)なわたしとは逆に、母は整理整頓が上手だ。「あと二本もあるもんね」と考えそうなわたしに代わり、しっかり管理してくれるだろう。――しかし、だ。

 「えっ、スペアキーあるよ?」

 母が驚き顔で出してきたのは、わたしがいま自転車屋さんで受け取ったのと同じカギが二本。彼女は自転車を購入した際、ちゃんと予備を注文し、その後、わたしに渡すのを忘れていたのだ。

 突如、スペアが四本に増えてしまった。「落とし放題だ」と呟(つぶや)いたが、人は天邪鬼(あまのじゃく)なもの。こうなると途端にカギを落とす機会は激減するのではなかろうか。というわけで手元のカギたちには今、一番から五番まで番号を振ったキーホルダーが付けられている。まずは一番目から使い始め、五番目のカギを使うのはいつの日か。せっかくだからすべて使いたいような、それではあまりにうっかり屋なような、複雑な気分だ。=朝日新聞2024年2月21日掲載