デビュー作が関心を持たれるほどには作家の遺作は注目されない。だが死に近づいている精神状態と、その渦中での原稿を遺作にしようとする意思には、何か壮絶なものがあると自分に理解させたのは芥川龍之介の最後の短篇(たんぺん)「歯車」だった。執筆は自殺寸前の時期であり、作中の主人公はA(芥川)であって、要するに芥川龍之介の心象風景が描かれつづけるのだけれど、ここで注意しなければならないのは「自死とは、自ら世界を終わらせる行為だ」との側面だろう。ゆえに他の死や、そこから生じる遺作とは少々違う。その「少しの違い」がAの視野を塞いでしまう半透明の歯車を作中に出現させていて、これらの歯車は幾つも幾つも現れて回るのだけれども、その運動の静謐(せいひつ)さこそが読み手の自分を慄然(りつぜん)とさせる。いつ読み返してもだ。
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誕生した以上、人間はつねに「自分の(命の)終わり」という世界の終わりに向き合っている。と同時に、世界の終焉(しゅうえん)はこの自分の寿命とは別個に存在するのかもしれないとも感じている。これらが重なり合い、また離れる様をまさに静かな筆致で書かんとしたとも言えるのが角田光代『方舟(はこぶね)を燃やす』(新潮社)で、二人の視点人物のその幼少期や成人期の少し前から、壮年期・初老期までが描かれている。具体的には一九六七年から二〇二二年までが物語の射程に収められているが、ここではいわゆる大河ドラマ的な要素、スペクタクルな要素は排されている。にもかかわらず人間は生まれたからには死ななければならないという宿命(それは無常感を生み、そして「世界の終わり」を意識させる)が、いかにして信じるという精神状態、すなわち“信”を必要とさせるかをなかば淡々と描出し、だからこそ凄(すさ)まじい衝迫力が作品のその全篇に満ちている。子供じみた予言は実際にカルト集団を生じさせるのだし――日本の現代史はそれを証明している――生きる指針が必要な女性には料理本が絶対的な“聖書”ともなる。本作『方舟を燃やす』にはブレない芯があり、それがどの程度不動なのかを説けば、あらゆる“信”にも揺らされないでいるのだと言い換えれば、たぶん核心が少しは伝わる。
時間の長い幅が角田作品にはあった。対して、人物たちの六十年七十年の人生をあっさり「特別な一日」にほぼ凝縮させたのが滝口悠生の「煙」(「文学界」四月号)である。七人乗りのミニバンに母親とそのきょうだい計六人を乗せた甥(おい)っ子が、喫煙の煙、およびその煙が連想させるその他の煙の向こう側に親族それぞれの「生きた歳月」をぼんやり感受する。そこにはとんでもない豊かさが含まれていて、やがては六人きょうだいの「すでに死んでしまっている末妹」すら物語には招かれる。
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この「煙」は登場人物たちの珍名がドラマを駆動させてもいたが、上田岳弘『K+ICO(ケープラスイコ)』(文芸春秋)はむしろ人物から名前を剝(は)ぐ。たとえば主役をKとすることで「歯車」の芥川(A)と向き合ったとも言える。実際にはKという名はカフカの死後出版の未完作『城』の主人公に由来する。上田作品でのKは現代社会の終わりに備え、あえてウーバーイーツ配達員という社会の“歯車”を仕事に選ぶ。それゆえスーパーヒーローと化す、との捻(ひね)りは痛快である。
が、名前を剝いだところでKとの言葉は残った。言葉そのものを拒む主人公は出現させうるか? その試みが川村元気「私の馬」(「新潮」四月号)であり、造船会社に就職して久しい女性はその社内のシステムの歯車となることで発話を不要としているのだとも読める。それは「他者とは真には交わらない」ことを意味する。だがそんな女性が膨大な言葉を費やして、異類との交流を語る。一頭の馬とのだ。では、その馬とは真に交流できているのか? ここで問われているのは語り手の“信”であり、この女性は徹底的に「自分一人きりの宗教」に揺らされている。
けれどもあらゆる愛情は信じるからこそ生まれるのだとも説ける。それこそが世界の実相だとも思う。その愛を郷里や祖国に注げば“愛国”の心情、“愛国”の行為が成立する。これは容易に敵対者の命を奪うが、その実相を私たちはウクライナの戦争で目撃しつづけている。カラーニ・ピックハートの『わたしは異国で死ぬ』(高山祥子訳、集英社)はウクライナのその戦争を、私たちの先入観を超えて掘り下げ、歌い上げる。墓碑銘に等しい「死者の名前の羅列」こそはこの作品の核心部である。=朝日新聞2024年3月29日掲載