見えないものの力 のびのび生きられますように 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評26年1月〉
ふだん我々は目に見えるものに追われている。仕事に悩み、人間関係に悩み、家族に悩む。そうして日々をこなしているうちに、生きる力が削れていってしまう。そんなとき、我々は大事なものを忘れている。ふと顔を上げれば、空には太陽が輝き、鳥たちが飛び交っているではないか。さらには、すでに失われた命、これから生まれてくる命を思えば、自分がどれほど小さなところに閉じ込められていたかに気づく。
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江國香織『ブーズたち鳥たちわたしたち』(角川春樹事務所)では、登場人物たちの目の前に突然、異界が顔を出す。そこに現れた存在は、人間が自らの命を輝かせることを心底、祝福してくれる。ニューヨークに滞在していた恵理加がロードアイランド州に行ったのは、そこでしか食べられない澄んだクラムチャウダーを味わうためだ。予約して行ったレストランのスープは絶品だった。けれども、ルークという名のウェイターが気になって仕方がない。奇妙なほど鼻が小さく、しかも恵理加がスープを食べているあいだ、ずっと彼女を見つめている。
ルークとはいったい何者なのか。アンディという男性が説明してくれる。実はルークはカッパなのだ。百年以上前、環境汚染に耐えられなくなった彼らは、きれいな川を求めてアメリカやカナダ、オーストラリアに渡った。そして人間たちと絶妙な距離感を保って暮らしてきた。アンディは幼い頃からペットのように家にいたルークと共に育ったのだ。
ここではブーズと呼ばれているカッパたちは、代々漁師たちに大切にされてきた。網にかかったブーズに酒を飲ませて海に帰すと、魚がよく取れた。そうした不思議な力はルークも持っていて、店が大変になると、ふらっと現れて助けてくれる。最初は半分疑っていた恵理加も、川でブーズたちの群れと出会い、信じるしかなくなる。
あるいは天狗(てんぐ)だ。東京で会社を辞め、主夫をやりながらも幻聴に悩まされるようになった秋介は、まるで呼ばれるように単身、富山の実家に戻る。そして姉の冬子がやっている農場を手伝ったりして暮らすようになる。冬子によれば、鳥たちは天狗の手足だという。その力と繫(つな)がった彼女の周りには、常に膨大な数の鳥が集まってくる。しかも彼女が農場をやると信じ難いほどの豊作が続く。秋介は思う。「彼ら(というのが天狗であれ鳥たちであれ)はたぶん、秋介に動けと言っていたのだ。あるいは自分の居場所を見つけろと」
目に見えないものたちは人間の我慢や苦しみを嫌う。そしているべき場所に移動して、命をのびのびと発揮させることを願う。古来人々はそうやって先祖や神に祈り、自然と関わり合ってきたのではないか。空気や水の柔らかさをちゃんと味わって生きること。本作はそうした感覚を思い出させてくれる。
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九段理江「No Time to Die」(「文芸」春号)では、異界はネットの向こうにある。中学生の世範(よはん)はどうしても死ぬことばかり考えてしまう。実は父も祖父もそうした想(おも)いに取りつかれていた。けれども二十五歳のとき父は変わった。やがて妻となる女性と出会って愛を知り、ようやく死が怖くなったのだ。やがて青年となった世範もまた、特別な女性と出会う。だが父と違って、彼女は生身の女性ではない。
ビリー・アイリッシュの曲をYouTubeでカバーしている逢理を見て、すべてが変わる。「その夜、生まれて初めて眠りを死と思わずに眠った」。確かにそれは一方的かつバーチャルな関係だ。しかしだからといって、本物ではない、ということにはならない。生と死について歌うビリーの歌と、世範の愛とも言えない愛が絡み合い、現代的なリアリティを形作っている。
イ・スンウの短篇(たんぺん)「消火栓のバルブを回すと水が溢れた」(『心の浮力』所収、平原奈央子訳、書肆侃侃房)に出てくる老婆は、消火栓の水でバケツを満たすと交通量の多い車道に出て行き、デッキブラシで何度も路面をこする。周囲の車を気にしないばかりか、警官に止められても彼女は手を休めない。何のためにこんなことをしているのか。通りかかった男が、彼女はああやって目に見えないものを呼び寄せているのだ、と言う。目に見えないものとは、人々が忘れ去った過去だろうか、あるいは異界に棲(す)む存在のことか。彼女の行動の屹立(きつりつ)した無意味さは、日常を切り裂く。(翻訳家・米文学者)=朝日新聞2026年1月30日掲載