日本でラジオ放送が始まったのは、治安維持法が制定された1925年。来年で放送100年を迎えます。意外なことに、当初はリベラルな講演を放送したことが結構あるんです。
たとえば久布白落実(くぶしろおちみ)という婦人運動家は25年に、ラジオで売買春問題について論じています。売春と、それに伴う女性らの人身売買を禁止する条約が21年、国際連盟で採択されたのに、批准に消極的な政府を厳しく批判。日本の放送は、政府の方針に逆らうような番組も含めて始まりました。
しかし、放送の基本法だった無線電信法には「政府之(これ)ヲ管掌ス」とあった。これでは電波の管理のみならず、放送内容までが「管掌」の対象として解釈されてしまいます。実際、当初の志はむしばまれていき、どうすれば戦争に国民を動員できるのかを必死に考え、実践していく方向になだれ込みました。
日中戦争が始まってすぐの37年の放送には、天津から帰国したばかりの女性が登場。中国人の使用人は「手くせが悪い」とか「支那人は完全に利己主義の民族」とまで、その女性に言わせるんです。
戦場のドンパチじゃなくて、日常生活という視点から、中国人に対する差別や偏見を助長させる。そのために女性を利用する。戦場には行かないかもしれないけれど、女性は「使えるぞ」と、放送人は考えていたのでしょう。
太平洋戦争真っ最中の43年7月には、伊東静江という教育者による「わが子を荒鷲(あらわし)に」という講演が放送されます。「母たるものは、ここに決然立って一人でも多く大空に我子(わがこ)を捧げる決意を致しましょう」と呼びかけている。息子たちを、当時不足していた戦闘機のパイロットにしようと主張しているわけです。
当時の放送業界関係者向けの雑誌に、こうした番組の担当者が「若き学徒を沢山(たくさん)に決戦の大空へ送るには母親の時局認識に訴えなければならない」と記しています。
特攻隊についても、いかに尊いかを、銃後の多くを占める女性たちに伝えようとしていました。
44年に特攻隊員たちの声を放送した番組を聞いた女学生は「お聴きした一億の胸の中はかきむしられるがごとくであったのです。飛行機を、飛行機を。ただただ飛行機を送らねば」と感想をしたため、勤労動員への意欲を奮い立たせていました。
女性を戦争協力に仕向ける放送は、こうして極めて「うまくいっていた」。
現代の感覚からすれば、戦時のラジオ放送については「御用放送のなれの果て」と思うじゃないですか。絶対に繰り返してはならないと。でも、そう考えない人もいた。
東京帝国大学法学部長などを務めた田中耕太郎という人が戦後、雑誌「放送」に、「放送は国策遂行の手段となってきたけど、それ自体が誤りではない。問題はそれがどんな国策だったかだ」といったことを書きました。政府に寄り添うことが公共放送の使命だと考える人は他にもいて、そういう人たちが戦後の放送をリードしました。
まもなく放送100年となりますが、問いは変わっていません。放送は国策に寄り添うのか、市民レベルの「公」を追求するのか。そのせめぎ合いのなかで戦い続けなければいけないということについては、女性も男性もないのではと思います。(聞き手・照井琢見)=朝日新聞2024年4月17日掲載