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分身に託す「自分の時代」 どんな社会を作るのか 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年2月〉

絵・黒田潔

 今年は何年かと問われた時、六年と答えるのか二十四年(西暦二〇〇〇年代の下二桁)と答えるのか。自分は後者である。西暦の時間感覚のほうに親しんでいる。だが子供時代はそうではなかった。元号の昭和が先にきて西暦が後だった。かつ昭和に何年を足すと一九〇〇年代の下二桁が算出されるのか、ちゃんとわかって実践できた。ところが平成に入ってそれができなくなった。しかし「子供時代が平成である日本人」であれば、やはり、けっこう簡単にできるのではないかと想像する。ここにあるのは日本人の、いつが「自分の時代」だと感じられるのかという意識と元号との強固な結びつきだ。

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 しかし元号ともっとも強烈な結ばれ方をしているのは言うまでもないが天皇その人であり、昭和であれば他ならぬ昭和天皇である。高橋源一郎『DJヒロヒト』(新潮社)はその序章の一文めで、書名にあるヒロヒトとは昭和天皇なのだと明示する。が、この人物をトレースすることで時代(昭和)を描いているわけではない。著者はいわば同業者を追尾する。多数と形容するよりも無数と呼ぶべき文学者たちが作中に登場し、彼らが時代を見る、時代が誰を生かし、殺したのかを見据える。同業者たちをこの巨篇(きょへん)に投じるとは、著者の高橋がその分身(たち)を戦争の渦中に投げ込むことに通じる。すると、そこに生きて、禍々(まがまが)しさを一身に浴びる彼らはその全員が高橋であるとの等式が出現する。ポップな装いと構造的な混乱のなかに「本気で責任を取る」との意思が見えて、本作のそのボイスには戦慄(せんりつ)させられる。

 向坂くじら「いなくなくならなくならないで」(「文芸」夏号)は当時十七歳で自死したはずの親友が四年半後に幽霊となって出現する……ように初めは読める。この幽霊は実在しており、つまり失踪していただけの同性(女)の人間であるわけだが、ヒロインとこの元幽霊の彼女とは高校時代は交換日記をしていて、挿入されるその記述は「二人が一人である」との読みをも強いる。また、二人の性交シーンもこうした理解を促進させる。しかし要素の一方が幽霊であった歳月が確実に主人公内に存在している設定下で、その幽霊が実在感を増すとは何を意味するのか? それは主人公その人の存在が稀薄(きはく)になること、である。物語は三部構成のその段階を追うごとに拡(ひろ)がり、心理描写は相当に精緻(せいち)で、しかも現代的な攻撃性を秘めている。

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 だが“現代的”とはどういうことなのか。令和六年的と言い換えればよいのか? 現代だの「自分の時代」だの今が何年であるかを数えるだの、そうした課題を別な角度から見事に拾ったのが高瀬隼子「いくつも数える」(「群像」五月号)である。ある職場で二十六歳の“年の差婚”がどのように受容されるか、いや反撥(はんぱつ)されるかが描かれるのだが、そもそも恋愛や結婚の対象との精神的な合一とは「二人の間にある『差』を解消すること」に通ずるはずだ。つまり年齢差は気持ちの上では消滅するものの一つだから、問われないはずなのだけれども時代(現代)は絶対に問う。結局ここで描かれる職場とはこの日本社会そのものである。もはや“世間”は職場なのだ。

 元号が書名なのが麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』(文芸春秋)で、ここでは四人の視点人物から観察される一人の人間が、幻の分身(大学時代の同級生。同性)とのペア化を望みながら数年間の流転をする様が巧みに描かれる。そして若い登場人物たちは皆、どんな職場でなら働けるか、起業するならばどんな職場を創出できるか、に腐心している。だが、こうした傾向は「どんな社会を作れるのか、今?」とのフレーズにも換えられる。著者が冷静にこの時代を評価している、むしろ現代性そのものを審査しているのだとわかり、そこにこの本の誠実さがある。

 ガブリエル・ガルシア=マルケス『出会いはいつも八月』(旦敬介訳、新潮社)は著者の死から十年経って刊行される“最新作”だが、最晩年は認知症に苦しめられていたマルケスは生前、この作品を自分で没にしている。小説作品がもしも作家の分身なのだとしたら、その分身が「実在すること」を許されなかったわけだ。確かに本作には随所に矛盾があり、弱さがある。が、五十歳で死んだ母親の墓を訪れる女性が、自身が五十歳になった時にどのような真の分身に出会うか……のビジョンには震える。その魔術性はマルケス的だとしか言いようがないのだ。=朝日新聞2024年4月26日掲載