二〇二四年はスティーヴン・キングのデビュー五十周年にあたる。ホラーのみならず「エンタメの帝王」ともいうべき存在だ。キング作品を貫く一つのキーワードとして、「書くこと」の多面性を描き続けていることを挙げたい。
傷痕から紡ぐ
「書くこと」とは、自らの傷痕から物語を紡ぐことである。『ミザリー』(矢野浩三郎訳、文春文庫・1089円)には、作家の体に残っている傷痕について尋ねてみれば、どんな小さな傷についても答えが返ってくる、という箴言(しんげん)がある。「大きな傷からは作品が生まれる」とも。
不幸な事故によって一人では歩けなくなったポール・シェルダンは、自身の熱狂的なファンであるアニーに監禁され、ポールの人気シリーズの続編『ミザリーの生還』を書かされることになる。動くことが出来ない状況でポールが綴(つづ)る物語は、まさしく大きな傷から生まれた物語、彼自身のための物語である。
憧れの人に影響を及ぼせる立場となり、自らの欲望を押し付けていくアニーの姿には、現代に読むからこそゾッとするような切迫さがある。『ミザリー』は、「書くこと」の切実さを描くと同時に、ファン心理の深淵(しんえん)を抉(えぐ)り出している。
別人格を作る
「書くこと」とは、自分の中に別の人格を作り出す営みである。キングには「リチャード・バックマン」という別名義があったが、バックマン名義の『痩(や)せゆく男』がベストセラーとなり、正体を明かすことになった。その別名義騒動に想を得て書かれた長編が『ダーク・ハーフ』(上・下、村松潔訳、文春文庫・品切れ)である。
売れない文学作家サド・ボーモントには、「犯罪小説家ジョージ・スターク」という裏の顔があり、実はスターク名義の方が売れている、という設定からして皮肉が効いている。サドが「スターク名義の作品は書かない」と宣言すると、身に覚えのない殺人の容疑をかけられ、物語は一気に恐怖の色を濃くしてゆく。「スターク」がひとりでに人を殺しているとしか思えない状況なのだ。とある怪奇短編をモチーフにしたと思(おぼ)しきラストシーンは圧巻だ。
サドが生き生きと羽を伸ばすように別名義の小説を書くシーンは、どこかキング本人の心の解放を見るかのようだ。同時に、「無理矢理書かされる」シーンの恐怖も生々しい。
読者と出会う
「書くこと」とは、読者と出会うことである。『ビリー・サマーズ』(上・下、白石朗訳、文芸春秋・各2970円)には、作家が「書くこと」に出会う瞬間、読者に出会う瞬間の燦然(さんぜん)たる煌(きら)めきが、恥ずかしいほど真っ直(す)ぐに描かれている。ホラーの要素はないが、キングの新たなる代表作といっていい出来栄えだ。
『ミザリー』や『ダーク・ハーフ』、盗作疑惑を描く中編「秘密の窓、秘密の庭」、文学色を色濃くした幽霊譚(たん)『骨の袋』、作家である夫を亡くした妻の視点から静謐(せいひつ)に綴られる『リーシーの物語』等、キングは多くの作品で「小説家」を描き、「書くこと」の多面性を物語ってきた。だからこそ、『ビリー・サマーズ』に辿(たど)り着けたのではないか。
殺し屋であるビリーが潜伏生活をするために「作家」に扮し、いつしか自分の体験を小説にすることにのめり込んでいく、という筋からしてユニークだが、作中作自体が面白いのも素晴らしい。だからこそ、ビリーが「読者」と出会った時、ビリーの感動と「読者」側の感動、その双方を私たちは味わうことが出来る。気恥ずかしいほどの幸福な出会いも、これほど老成した筆で描かれれば、チャーミングではないか。=朝日新聞2024年5月18日掲載