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「カフカの日記」 静かな崩壊 限りなく透明な記録 朝日新聞書評から 

評者: 福嶋亮大 / 朝⽇新聞掲載:2024年05月25日
カフカの日記 新版――1910-1923 著者:フランツ・カフカ 出版社:みすず書房 ジャンル:エッセー・随筆

ISBN: 9784622096931
発売⽇: 2024/04/18
サイズ: 19.4×4cm/570p

「カフカの日記」 [著]フランツ・カフカ [編]マックス・ブロート

 カフカの日記は、ヨーロッパ文学史のなかで特異な位置を占めている。自己をあくまで平静に観察し続けること。生を入念にレイアウトすること。彼の日記はそのための省察と熟考に差し向けられる。彼は他のどの作家とも異なるやり方で、日記をいわばカフカ的日記に「変身」させたのである。
 そこには、ふつうの日記にありがちな怨恨(えんこん)や気取り、うぬぼれや承認欲求が一切見られない。カフカの生は苦痛と混乱に満ちているが、そのありさまは精密機械の動作のように記録されてゆく。「ぼくの内部はごった返していて、深いところがさっぱり見通せない。ぼくは生きている格子細工のようなものだ」「先週はまるで一つの崩壊のようだった」。物音ひとつ立てない内的な崩壊。カフカの日記はその静かな破局を、細心の注意を払って、限りなく透明な文章で報告し続ける。
 カフカの文体は、湿っぽい文学的情緒とは無縁である。「文学に対してなんら根本的な欲望を感じていないことは確かだ」。カフカは「書くこと」を計画し、試行し、破棄する。彼のすべての小説と同じく、彼の日記も完成ではなくプロセスが本体となる。芝居の考察、ゲーテへの関心、暗号めいた逸話、夢の記録。これらの断片は、ある意味で彼の小説以上に興味深い。
 その一方、私生活でもトラブルが続く。フェリーツェとの婚約と婚約破棄を繰り返したカフカは、似た境遇の哲学者キルケゴールに自己を重ねるが、それは何の解決にもならない。二人の関係の行き詰まりは、希望のなさを増大させるばかりだ。「このような苦しみに耐えなければならず、そしてひき起こすとは!」。だが、カフカの実存は、苦痛の観察によっていっそう澄み切ってゆく――「ぼくの生は誕生の前のためらいである」と記すほどに。
 疲れと不眠に包まれた独身者カフカ。彼は自己を迷える羊になぞらえ、さまざまなタイプの無力さや確信のなさを日記で記録し続ける。「ぼくは意味もなく空っぽだ」「こんなに見捨てられていながら、それを嘆き悲しむ力を持っていないのだ」。だが、この「空っぽ」の底で、同じチェコの作家ヴァーツラフ・ハヴェルの言う《無力な者の力》に火が灯(とも)る。「もうすべてが駄目なように見えるときでも、やはりなお新しい力が湧き出てくるものだ」。
 たとえ背後の夜の闇がどれだけ濃く深いとしても、カフカの文体はいつも三日月のように細く硬い。その白い輝きは、後にも先にも類例がない神秘的な力を、われわれに感じさせるのである。
    ◇
Franz Kafka 1883~1924。20世紀文学を代表する作家。オーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ)のプラハ生まれ。作品に『変身』など。『審判』『城』などの遺稿が友人マックス・ブロートの編集で刊行された。