1. HOME
  2. コラム
  3. ひもとく
  4. イラストレーターの本 「本」の固定観念を覆すエッセイ 辻山良雄

イラストレーターの本 「本」の固定観念を覆すエッセイ 辻山良雄

新旧のイラストレーターによる多彩なデザインの本が目を引く=東京都杉並区の書店「Title」

 店にイラストレーターの書いたエッセイが入荷すると、その雄弁な装丁に、つい手が伸びる。多くの場合、カバーには彼ら自身の作品があしらわれるが、自らの内なる欲求に従い、絵を描く画家とは異なり、クライアントの発注に応じた絵を納品する彼らは、デザインされた〈本〉としての姿を意識しながら絵を描くのだろう。だからモノとしての完成度が高く、それは店頭でもよく目立つ。

面として捉える

 そして、中身に関しても同様だ。同じ人物が文章も挿画も手掛けているから、その二つはもはや不可分。文と絵とが巧みに構成されたページを見てみれば、彼らがエッセイを、単に文章が連なる〈線〉ではなく、絵も含めて表現すべき〈面〉として捉えていることがよくわかるだろう。

 そのことに対し意識的だったのが和田誠だ。最近復刊されたエッセイ、『わたくし大画報』(ポプラ社・1760円)は、レイアウトも含め「一冊まるごと和田誠」と言えそうな本である。挿画はページにより枠の形や大きさが異なり、文章の合間には本文の内容とは直接関係がないPR(今度『〇〇』という本が出ます等々)が唐突に差し挟まれる。PRは、本書が雑誌に掲載されていた時の名残だろうが、こうした固定観念を覆される試みに「本とはこのように、自由なものであってもよいのだ」と、読者はその都度新鮮な気持ちで、ページをめくることになる。

 文章はあっさりと書かれているようで、その実、対象をよく見て、過不足なく特徴を捉えるところなどは、氏のイラストレーションを彷彿(ほうふつ)とさせる。和田は六〇年代には既に第一線で活躍し、当時の出来事を綴(つづ)った『銀座界隈(かいわい)ドキドキの日々』という自伝的エッセイもあるが、堀内誠一や安西水丸らとともに、イラスト+文章という形式の本を洗練させた人物と言えよう。

「くだらなさ」も

 八〇年代も半ばに入ると、みうらじゅんやナンシー関、リリー・フランキーといった、「サブカル」という言葉が似合うイラストレーター(ナンシー関は、正確には消しゴム版画家)が登場する。雑誌がまだ元気だった時代で、週刊誌や女性誌を開けば、彼らの描いた絵や文章が、ページのどこかに見つかった。

 はじめてリリー・フランキーの『増量・誰も知らない名言集イラスト入り』(幻冬舎文庫・660円)を読んだ時、「こんなことまでエッセイに書いちゃうの?」と驚いた。下ネタ、ダジャレ、人によってはくだらないと一笑に付されそうなこと――だがその「くだらなさ」が、人がエッセイに書くことのできる領域を大きく押し広げた。そして彼にはどこか一歩引いた視線があって、下世話な中にもペーソスがあり、生きる真実を突いた瞬間があった。またどこかで書いて頂きたい。

 そしていまは、読者が親しみを感じるような、身近な生活を書いたエッセイが花ざかりの時代。それはイラストレーターのエッセイでも同じことで、中でもわたしが注目しているのが三好愛さんだ。

 『怪談未満』(柏書房・1650円)は日常で感じるモヤモヤすること(=怪談未満)を書いたエッセイ。独特だなと思ったのは、そのモヤモヤが自身の身体感覚と深く結びついていることである。母がふと眼球から何か取り出し、「お母さんじゃないもの」へと脱皮した時のこと。気がつけばそこにいる、恐怖の「ギャラリーおじさん」。一見可愛らしいイラストには、そうした何とも言えない、ぬめりとした感触が貼りついている。

 本書の後半では、私という人間の中に、もう一人別の人間がいるという「産むことの不思議」が語られる。物事を淡々と書く筆致が、生きている限り、誰もきれいなだけではいられないのだという事実を、改めて思い出させた。=朝日新聞2024年6月8日掲載