初候補が3人、難しい事前予想
7月17日、第171回直木賞の選考会が行われる。前回は、絞り切れなかったのか6作が残ったがそれはあくまで異例(受賞作は河﨑秋子『ともぐい』と万城目学『八月の御所グラウンド』)、今回の最終候補は5作である。
- 青崎有吾『地雷グリコ』(KADOKAWA)初
- 麻布競馬場『令和元年の人生ゲーム』(文藝春秋)初
- 一穂ミチ『ツミデミック』(光文社)3回目
- 岩井圭也『われは熊楠』(文藝春秋)初
- 柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)6回目
今回は新鮮さを感じる顔ぶれとなった。初候補が3人いる。3回目が一穂ミチ、柚木麻子が6回目である。『ツミデミック』の一穂ミチは2007年のデビューだから長い筆歴があるが、ジャンル小説での活躍だったので一般文芸ではまだ中堅と呼ぶには早い位置にいる。ただし一般文芸に転じて間もなく発表した『スモールワールズ』で早くも第165回の直木賞候補となり、同作で第43回吉川英治文学新人賞を獲得した。直木賞レースでは最有力候補と見なされ続けた作家である。
候補6回目の柚木麻子も有力者としてここ数年動向を注目されてきた作家であり、2014年に『ナイルバーチの女子会』で第28回山本周五郎賞を獲ってから間が空いているので、そろそろ次の段階に進むことを期待したい。だが、同じ山本周五郎賞の第37回を『地雷グリコ』の青崎有吾が初候補でいきなり受賞した。同作は第24回本格ミステリ大賞、第77回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)もさらっており、2024年上半期を代表する大衆小説の1つとなった。この勢いは無視できないだろう。さらに、新人文学賞とは別のところから出てきた麻布競馬場、ここ数年目をみはるほどの精力的な執筆ぶりを見せつけている岩井圭也もおり、事前予想は非常に難しい。まずは、それぞれの作品をご紹介したい。
展開のスリルで没頭させられる 青崎有吾「地雷グリコ」
高校1年生の射守矢真兎(いもりや・まと)を主人公としたゲーム小説であり、骨格にミステリーの謎解き構造が組み込まれ、仮説構築と検証によって物語は展開する。先を読みづらくさせる展開のスリルで没頭させられる小説で、真相を示唆する手がかりの出し方も完璧である。
表題作の題名は射守矢が最初に挑むゲームを指している。都立頬白高校の文化祭で、屋上を選んだ射守矢の1年4組と生徒会の要望が重なり、そうした場合の伝統である“愚煙試合”で使用権が決められることになる。愚煙試合では毎回オリジナルのゲームが行われるのだが、この場合は“地雷グリコ”である。じゃんけんの手で進める数が決まっており、先に階段を上り切ったほうが勝ち、というのがオリジナルのグリコだ。双方のプレイヤーが、その途中の段に3発の地雷を仕掛けることができる。実際に爆発するわけではないが、被弾した相手は10段後退しなければならないのである。ゆえに、地雷グリコだ。
どこに地雷を仕掛けるかだけではなく、自分の作戦を相手が読みにくることを前提に、その裏をかく戦略が必要になる。つまり心理戦なのだ。以降、坊主衰弱、自由律ジャンケン、だるまさんがかぞえた、フォールーム・ポーカーと、名前を聞いただけで興味を惹かれるゲームの数々を射守矢は闘うことになる。語り手は彼女の親友である鉱田なのだが、その目から見ても射守矢が何を考えているかはまったくわからない。一見頼りなくさえ思える人物が実はものすごく強い、というキャラクター設定も本書の魅力である。
青崎は『嘘喰い』への傾倒を公言しており、同作を含めた漫画作品からの影響が強く感じられる。選考委員がそうした作品をどう評価するかが焦点だろう。不安なのは、年配読者の中には各話のゲームルールがよくわからなかった、という感想を述べている方が少なくないことだ。こんなにわかりやすく書いているのに、と思う。
「意識高い系」を揶揄せずに書く 麻布競馬場「令和元年の人生ゲーム」
前の世代が社会のありようを変えてしまったために、今を生きる若者たちは見えない枷のようなものに身体を絡めとられ、不自由さを感じながら生きている。どんな時代にも唱えられる世代論は、そこで規定される当事者と、上の年齢層から行われる指摘・批判との間に齟齬が生じるのが普通だ。当事者の今を、気持ちを表す言葉を、部外者は的確に表現できないのである。『令和元年の人生ゲーム』にはそれができているのではないか、と思わせてくれるものがある。
4章から成る小説で、平成28年(2016)、平成31年(2019)、令和4年(2022)、令和5年(2023)と、それぞれの年が章題になっている。語り手は毎回異なり、第1章のそれは慶應義塾大学商学部1年生の“僕”だ。本作の中では、企業などは架空のものになっているが、地名や大学など公共性の高い組織・施設は実名で登場する。そうすることで臨場感を高め、平成末期から令和にかけての現実が作品の中にある、と読者に納得させるためだろう。
“僕”はサークルに入る。大学生が持ち寄ったビジネスプランを審査するコンテスト、略してビジコンを主催するサークルだ。そのリーダーが、高校生で起業家として一度は注目されたが、継続には失敗してビジコンで再起の機会を窺っている元カリスマ大学生だというのがそれらしくていい。本作に登場する人々の多くは、いわゆる「意識高い系」なのである。それを作者は、揶揄せずに書く。ままならぬ世界に生まれてしまった人々が自衛のためにしていることを、他者が批判するのはお門違いではないか、という公平な視点がそこにはある。ただし、外部の目も設けている。全話に登場する沼田というシニカルな男がそれで、みんなが努力してくれれば俺が甘い汁をチューチューできる、と「意識」に水を差すようなことを平気で言う。彼によって世界の均衡が保たれた物語世界には居心地の良さがあるのだが、作者はそれを最後に揺らしてみせる。その戦略にも私は感心した。後を引く読後感なのだ。
コロナ禍の人間模様描く練達の技巧 一穂ミチ「ツミデミック」
題名が示唆するように、新型コロナウイルスの蔓延によって狂わされた人生模様が描かれる。それが「ツミ」、つまり犯罪という極端な局面に現れるさまを描くという共通項のある連作短篇集だ。個人としての人間は、社会との根源的な対立関係を持っている。それは平時であれば打算や常識的振舞いによって見えなくなっているのだが、切羽詰まった状況に追いやられると粉飾ができなくなり、社会に敵対行動をとることになる。それが犯罪という現象である。これまでの一穂ミチが書いてきた主題のひとつに、自身と周囲との齟齬があると思う。苦しみはその人の中にあり、他者と共有することはできない。その孤独ゆえに人は苦しむのである。犯罪という要素を導入することによって、その関係性が従来よりわかりやすい形で読者に示されている。一穂の独自性はやや後退したようにも見えるが、小説としての普遍性は向上したと思う。作者の技巧が練達したのだと、私は評価したい。
不思議の要素が加わった奇譚も含まれているのが本作の特徴である。故郷を捨てて東京に来た「違う羽の鳥」の語り手・優斗は、絶対にそこにいるはずのない人物と同姓同名の女性と知り合う。「憐光」は語りに仕掛けがあるので詳しくは書けないが、特殊な状況になった主人公が、元の状態では気づけなかった他人の心を知る話だ。特殊詐欺を題材にした「特別縁故者」、主人公があることに執着して悲惨な結果となる「ロマンス☆」など、正攻法のミステリーとして読めるものもあり、いずれもそうなってしまう背景にコロナ禍の逼塞が関係している。やや違った角度で現代を描いている「祝福の歌」も同じで、児童虐待の可能性を匂わせておいて、ある意外な事件へと接続してみせる。最後の「さざなみドライブ」はこうしたゆるやかな絶望に耐えられない人が向かう先を描いたもので、全体をよく締め括っている。バラエティに富んだ、いい短篇集だ。
「怪人」を人間として描く 「われは熊楠」岩井圭也
坪内祐三は『慶應三年生まれ七人の旋毛曲り』で同年生まれの変人が明治文化を作ったことを示した。夏目漱石・正岡子規らと並んで名前が挙げられているのが粘菌研究などの博物学者として知られ、『十二支考』など民俗学の先駆としても功績を遺した南方熊楠である。
現在の和歌山県生まれである熊楠は、破天荒な生き方が興味を惹くのか多くの評伝が存在するほか、神坂次郎『縛られた巨人』、水木しげる『猫楠』など多数の伝記物語が書かれている。つまりもともと熊楠自体がおもしろいのである。創作者としては料理しがいがあると同時に、いかに独自性を出せるかで苦慮する題材であろう。挑んだ勇気をまず讃えたい。
6章構成になっており、熊楠の誕生から死までが描かれる。熊楠が異常な癇癪持ちであったことは有名で、現在からみればなんらかの発達障害の持ち主であったことも考えられる。そうした内面に切り込む形で岩井は登場人物・熊楠の人格を設計している。ここで描かれる南方熊楠は、万物を知りたいという博物学的大望を抱いた野心家だが、経済的事情など現実の壁に阻まれて煩悶する。夢が夢のまま通らない無情が描かれるのである。
熊楠は那智山中に棲んで人間界から一時離れるなど、神秘体験者としても知られる。そうした超人性があだな「天狗(てんぎゃん)」につながるのだが、社会的地位を得ると山の人ではなくなり、里において他者と交わるようになる。そうした生き方を矮小化と見るか、成長ととらえるかは意見の分かれるところだ。岩井は、怪人と見られる熊楠を人間として描く選択をしたようである。初めから内面に踏み込んでいるのもそのためだろう。偉人の評伝はどうしても、幼少から青年期にかけての冒険性が中年以降では影を潜めていくようになる。本作も例外ではないのだが、人間・熊楠を描くことを作者は落としどころに見極めたようだ。先行作を吹き飛ばすほどの勢いはないが、親しみやすい熊楠像が描けていると思う。
男たちのみみっちさを描く毒を楽しむ 「あいにくあんたのためじゃない」柚木麻子
候補になった回数では最多の柚木麻子は、新機軸である。過去の候補作は長篇や連作短篇集であったが、『あいにくあんたのためじゃない』は共通の登場人物を持たない短篇集である。ただし、全体を統一するようなテーマはある。『あいにくあんたのためじゃない』という題名が示すように、どこにいても中心に出てきて主役として振る舞おうとする「あんた」を嗤い、その愚かさを指摘する短篇が本作には多数収録されている。これは2022年に刊行された短篇集『ついでにジェントルメン』と同一路線のものだ。並べると明らかで、「あんた」とはつまり「ジェントルメン」なのである。「男たちよ、思っているほどあんたたちは社会の主役にふさわしくない」と作者は語りかけている。
この2作は一口で言うなら諷刺短篇集で、特に前作は笑える箇所がとても多かった。収録作中の白眉である「渚ホテルで会いましょう」は、不倫純愛を売り物にしたエロ小説がベストセラーとなった老作家がかつての夢よもう一度、と舞台のモデルであるホテルを訪ねる話で、大笑いさせられたものである。「不倫純愛を売り物にしたエロ小説がベストセラーになった」作家に喧嘩を売っているしか思えない内容だったし。
そこまで踏み込んだ作品は今回ないのだが、他人を踏み台にして自分が復活することしか考えていない男たちの話「スター誕生」とか、ネット世論に負けた評論家が世間を恨みつつ再起しようとする「めんや 評論家おことわり」とか、男たちのみみっちさを書いた短篇は毒があって楽しい。コロナ禍の息苦しさと同時にTVドラマに反映される世論の移ろいを描いた「トリアージ2020」や町の不思議に目を向けた「商店街マダムショップは何故潰れないのか?」など、喧嘩上等でないものも含まれており、諷刺の笑いを楽しむことができると思う。柚木のコミックノベルが好きな私としては頑張ってもらいたいのだが。
選考会では一穂ミチと柚木麻子が並ぶ?
素直におもしろいと感じたのは『地雷グリコ』で、今のミステリー界でいちばんおもしろいのは青崎有吾だと思っているので、ぜひ受賞してもらいたい。かつては〈平成のクイーン〉と呼ばれていた青崎に私は〈令和一おもしろいミステリー作家〉の称号をつけた。それをぜひ全世界に広めてもらいたいものである。ただ、読者を選ぶだろうなとは思う。選考委員もしかり。無条件で本命を打てないのはそのためだ。
麻布競馬場も選考委員諸氏はそれまで読んでいなかった人が多いだろうから、『令和元年の人生ゲーム』も新鮮に受け止められるのではないかと思う。同時代性、という言葉が選評に躍ると予想する。風俗小説としてのリアリズムという観点からも評価されるはずだ。田中康夫『なんとなくクリスタル』に言及する選考委員もいるのではないか。この作品が受賞という目も十分にある。あまりけなす理由が見つからない作品なのだ。あるとしたら、ここに描かれた世代の心性がピンとこず、あまりにも小さくまとまった人間しか出てこないのではないか、という批判が持ち上がってきたときだろう。『われは熊楠』は伝記小説としてはおもしろいのだが、南方熊楠がもともとおもしろい人だから作者が寄与した部分は割り引いて考えるべきではないか、という声が必ず上がるだろうと思う。
残る2つの短篇集のうち、『ツミデミック』は作者が普遍性を優先して一般小説としてのおもしろさに寄せた感がある。『あいにくあんたのためじゃない』は、諷刺性云々というより、そこで描かれている題材選びの段階で作者にジャーナリスティックな関心があったように思われる。両方とも現代を描きながら、多くの読者に訴えかけるための妥協点を探っているような感じがあるのだ。大衆小説としてはいいことだと思う。
選考では一穂ミチと柚木麻子が並ぶのではないか。そこで候補になった回数が多いほうが優先されて『あいにくあんたのためじゃない』に決まると思うのだが、どうだろうか。もしそこで揉めるようなら、現代を描くという意味ではこれもありますよ、と『令和元年の人生ゲーム』が敗者復活してくる、というのは私の妄想だ。しかし初候補だから、そこまで押し切れないのではないか、という気もする。やはり『あいにくあんたのためじゃない』単独受賞ではないか。『地雷グリコ』の単独、もしくは同時受賞ならもちろん、とても嬉しいのだが。
さあ、待て、7月17日。
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