窪島誠一郎『読むこと 観(み)ること』(アーツアンドクラフツ・1980円)だ。帯には「『活字離れ』『絵離れ』に異論あり! 私設の図書館・美術館館主による読書・鑑賞について。」とある。まさに私への警告だと思った。それでも“つんどく本”であった。で、ようやく開いて読んでみた。時すでに私の知能はもう溶けて消える寸前という感じだった。
この本は窪島さんの本と絵画へのあふれんばかりの情熱が語られている。バーチャルな世界には、触覚や臭覚などが欠落する。この本には特筆すべき引用本がある。頭木弘樹ほか『NHKラジオ深夜便 絶望名言』(飛鳥新社)。その著者、頭木弘樹さんがいわれるには「おかしなタイトルですよね。でも、たとえば失恋したときには、失恋ソングを聴きたくならないでしょうか? それと同じで、絶望したときには、絶望の言葉のほうが、心にしみることがあると思うのです」。フランツ・カフカの次の言葉が引用されている。
「ぼくは人生に必要な能力を、なにひとつ備えておらず、ただ人間的な弱みしか持っていない」(八つ折り判ノート)、「無能、あらゆる点で、しかも完璧に」(日記)。
えーあの『変身』を書いたカフカがそんなことを思っていたのか!?と驚いてしまう。
山極寿一、鈴木俊貴『動物たちは何をしゃべっているのか?』(集英社・1870円)である。山極寿一さんは言わずと知れたゴリラをはじめ、霊長類の研究者だ。対する鈴木俊貴さんは動物言語学の先駆者でシジュウカラには言葉のみならず文法があるという研究者だ。
山極さんは「グッ・グフーム」とゴリラ語であいさつを交わしながらゴリラの中で暮らしてこられたし、鈴木さんもほぼ森の中でシジュウカラと暮らしておられ、シジュウカラのさえずりはオオタカが来たぞという「ヒヒヒ」、蛇が来たぞという「ジャージャー」というさえずりを発見したと。同じ森の中に暮らすと言っても、ゴリラにはゴリラの都合があり、シジュウカラにはシジュウカラの都合がある、それはヤーコブ・フォン・ユクスキュルの「環世界」という概念だが、平たく言うと種はそれぞれの都合で生きているという事だ。
山極さんが使われている言葉「暗黙知」(言葉で説明できなくても個体が認識できている世界、例えば誰それの顔、というのは言葉では難しいが、イメージは脳裏に浮かぶし、声も聴けばすぐわかる。という経験知、身体知など)、動物たちがどこまで暗黙知で自分たちの住む環境を認識しているのかといったようなことである。人間は言葉という形式知に多くを依存しているが、暗黙知というのも大変重要な役割を果たしている。言葉で説明できる世界がすべてではない。だから、鈴木さんの発見した「シジュウカラは群れをだます」というさえずりを使った行動はたしかに適応して生き延びるためのシステム(文化)のような気がする。
星野道夫『大いなる旅路』(PHP研究所・品切れ)では、帯にこうある。「あらゆる生命が、ゆっくりと生まれ変わりながら、終わりのない旅をしている」
星野道夫の圧倒的なアラスカの大地の写真の凄(すご)さ、言葉にならない凄さの前で、「そうだよなあ」と深く感動する自分がいる。
「カリブーは、極北の放浪者。ある日、ツンドラの彼方(かなた)から現れ、風のようにツンドラの彼方へ去ってゆく。その行方を、誰も追うことができない」「北極圏のツンドラを大移動するカリブーの大群も、南東アラスカの海で力強く舞い上がるザトウクジラの姿も、そしてこの土地で生きるエスキモーやインディアンの人々さえも、彼らの生命がどこかで自分の短い一生と重なってくる。それはまた、生命(いのち)あるものだけでなく、この土地の山や川、吹く風さえも自分と親しいつながりを持ちはじめている」。地球上のあらゆる風景の中でそれぞれの命に違う時間がいつも流れている。=朝日新聞2024年7月20日掲載