現代人は“答え”ばかりを探す。ネットで検索する、すると調べたい事柄の“答え”が出現する。さらに高度な応答っぷりを期待して生成AIは登場したし、進化しつづけてもいる。そうした“答え”は的確だったり高速だったり簡潔だったりすれば賞讃(しょうさん)される。映画だのドラマだの小説だのにも“答え”はあって、それが粗筋だ。だから映像メディアには倍速視聴が普及し出した。小説はどうなるのだろうかとは自分は問わない。なぜならば問いかけてくる小説、こちらを困惑させるほどの“問い”に満ちた文学こそがわざわざ読書時間を投じたり費やしたりするのに価するものだと確信できているからだ。
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木村紅美の中篇(ちゅうへん)「熊はどこにいるの」(「文芸」秋号)にも巨大な問いが出る。題名にある熊、これが危険な野生哺乳類だと私たちは了解する、なのに絵本やアニメでは熊はお人好(よ)しなのはなぜか? 子供たちには戯画化されたイメージを与えて、しかし人間たちの共同体からはツキノワグマもヒグマも排除し、射殺もする。が、木村のこの小説はそんなことを直接問うてはいない。男たちから逃れてきた女性ばかりの暮らす共同体があり、しかしそこで一人の乳児が実験的に育てられる事態が生ずる。その乳児は“男”だった。いま自分が投じた実験的との語は人工的とも言い換えられて、そこでは生物的に“男”であることは拒絶され、かつ求められ、そこに闇が噴出する。だが物語は時間経過に合わせてこうした展開を描いていたりはしない。推定五歳になったその子が共同体から脱走した、そして“下界”に逃れてしまった時点から始動させる。家の外の世界には熊がいるよ、と教えられつづけた子供はこの“下界”にてクマを名乗る。結局のところ、予定調和をすべて破壊しながら物語は「疎外とは何か」を痛烈に問う。これほどの強度の小説は滅多にないし、ここには真の意味での熊がいる。
愛らしい熊の代表はジャイアントパンダだ。高山羽根子「パンダ・パシフィカ」(「小説トリッパー」夏季号)はある種のパンダ全書のような小説でもある。しかし啞然(あぜん)とさせるほど作品内には謎ばかりが満ち、最終的に“問い”は増幅し切って終わる。女性の主人公は元同僚の頼みごとから「厄介な仕事」に巻き込まれて、その全容は語られないまま、彼女はその「厄介な仕事」の当事者側に移行している。生き物を飼うとは何か、動物園とは何か、そもそも世界を認識させている(のかもしれない)嗅覚(きゅうかく)とはなんなのか? どれも問いかけられたまま、答えを探すのは読者になる。そして主人公とともに謎に寄り添い、能動的に行動する事態は、読者自身を主人公に変えている。これは読書の真の姿でもある。
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高山作品は二〇〇八年の世界を西暦は入れずに語り切ったが、同様に西暦類は用いず、実在した人物名も入れずに現代史を語ったのが磯﨑憲一郎『日本蒙昧(もうまい)前史 第二部』(文芸春秋)で、この小説がすばらしいなと思えるのは冒頭の数行で主題と感じられる事柄が綴(つづ)られ切っている点である。つまり作者または語りの明確なスタンスが確乎(かっこ)と存在する。前半はパンダの初の来日騒動を中心に物語は回る。上野動物園の飼育課長が、少年時代、愛犬と逃亡を企てた挿話の魔術性は「日本人の『日本人性』を剝(む)き出しにする」文業を飄々(ひょうひょう)と、なのに鮮烈に成し遂げている。
日本人が日本人であることが謎だし時代の推移がやはり謎だ、それら自体が“問い”なのだとの姿勢は角田光代「星ひとつ」(「文学界」八月号)にもあって、この短篇は四十年ほどの時間を一人の人間のその生涯に重ね、比喩的な「社会の隅」のような場所から列島の現代史を抉(えぐ)った。主人公は町の食堂を経営する。その店は三十数年前は頑固親父(おやじ)の店として評判になった。いま、頑固親父的な言動はハラスメントであり、ネットのレビューは最低点をつける。そのことの善(よ)し悪(あ)しをこの短篇は答えずに、しかし重油のように粘ついた“問い”を読者に分かつのだ。
身近さの内に現代史を凝縮するとの試みを離れ業のようにやったのは豊永浩平『月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走い』(講談社)である。ここでは作中に十四ある章のそれぞれの語り手がそのまま多数の声で語りかけている、そして沖縄の歴史を時代ごと立場ごとの場所(それは「社会の隅」である)から語りかける。語ることは、答えることではない。“問い”を共有する姿勢なのだという真実をこの二十一歳の若い著者は見抜いている。=朝日新聞2024年7月26日掲載