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「左利きの歴史」書評 長く続いた偏見 その源泉と今

評者: 椹木野衣 / 朝⽇新聞掲載:2024年08月03日
左利きの歴史:ヨーロッパ世界における迫害と称賛 著者:ピエール=ミシェル・ベルトラン 出版社:白水社 ジャンル:歴史・地理

ISBN: 9784560092996
発売⽇: 2024/06/27
サイズ: 19.4×3cm/328p

「左利きの歴史」 [著]ピエール=ミシェル・ベルトラン

 わたしは左利きではないが、昔から憧れがあった。ロック史上最高のギタリスト、ジミ・ヘンドリックスは左利きだったが、右利き用のギターをそのまま構えて、誰にも真似(まね)のできない演奏をした。美術の世界に目を向ければ、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ、ハンス・ホルバイン、ヤン・ファン・エイク、ヒエロニムス・ボスといった巨匠たちが、抽象画ではカンディンスキーやクレー、加えて迷宮のような絵を描くエッシャーも左利きで、ルネサンスに戻れば、あの「天才」ミケランジェロも矯正された左利きだったらしい。
 ところが、西洋社会で左手は長く嫌悪の対象とされてきた。「あらゆる名誉、あらゆる特権、あらゆる高尚さは右手に属し、あらゆる軽蔑、あらゆる卑俗な任務、あらゆる下劣さは左手に属する」というのだ。古代ギリシャの美の規範「ミロのヴィーナス」さえ、右利きゆえに美しいと唱えられた過去がある。
 著者は、その源泉を善と悪を峻別(しゅんべつ)するキリスト教世界特有の二元論に見る。聖書では右手の優位は随所で喧伝(けんでん)されてきた。「ああ主イエスよ、どうかずっと私の右にいて、この手をけっして離さないでください」という一節など典型だろう。また、西洋の絵画でエバは禁断の果実を左手でもいできた。
 幼い頃、利き手の矯正に理不尽を感じた人は少なくないはずだ。それもまた「迫害」の歴史の一端ではなかったか。けれども著者は、このような左利きへの偏見が、ついぞ宗教裁判やナチズムのような宗教的・民族的・政治的帰属をめぐる大規模な迫害にまで発展しなかったことに着目する。それどころか、わたしがかつて憧れたように、裏返しの称賛さえ浴びることもあった。さらに左利きは「障害」でもない。むしろ「美意識」の問題なのだ。だからこそ右利きの優遇は、ユニバーサルデザインが唱えられるいまの社会でも根深く生き残っている。
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Pierre-Michel Bertrand 1962年生まれ。左利きで、中世から近世にかけての文化史、美術史が専門。