感謝状の先でよぎる不安
――ある冬の夜、外で凍えて震えている幼い少女「ありす」を見つけた中学3年生3人。最初に少女に声をかけた「七海 未央(ななみ・みお)」と、塾帰りに居合わせた「青山 湊(あおやま・みなと)」「周東 律希(すとう・りつき)」は少女を保護して交番に連れて行きます。3人は“迷子を保護したお手柄中学生”として警察から感謝状を受け取り、地元でニュースになりますが……。
私はすごくアマノジャクなところがあって、「警察の感謝状」のニュースを目にしたときに、すごいな、えらいなーと思う反面、別の事情があるかも……と考えることがあるんです。もし事実と違っていたらと考えたことがこの話を書くきっかけになりました。
書く前は、どんな話になるのかわからないのです。私の中にはまず気になる状況があって、「そこに置かれた子どもたちはどう考え、動くか」を知りたくなることからはじまります。
この場合だったら、感謝状を受け取った中学生の中に、ごく普通のありふれた男の子が1人いるかもしれないと。それが律希という主人公。あと何人かいた方が話は広がっていくように感じたので、人気があり嫌みのない女の子の七海未央、そしてもう1人はひとまわり離れた幼い弟がいる湊になりました。
――半年後の夏、高校生になった彼らはファストフード店で再会。親による4歳児虐待のニュースを見て、ありすを思い出した七海未央は、湊と律希に不安を打ち明けます。あの夜、交番に連れて行ったありすは、本当に“迷子”だったのかと。
「もしかして、わたしたちすごい誤解をしてたってことないかな」と七海が問いかけ、律希と湊は驚きます。でも実は、あのあと一度コンビニ前でありす親子を見かけていた湊も、うすうす変だと思っています。
ただ律希はニュースを自分に近いこととしては受け止められなくて。本当にヤバいときは、だれかがなんとかしてくれるんじゃないかと思っているんですね。そんなひどいことがあるという現実をあまり受け入れられていない。自分とは接点がないと……。多分、現実味がないんじゃないかと思います。
外から見えにくい“真実”
――高校生くらいになると、世の中のことがだんだん見えるようになる時期があるかもしれませんね。
実は、七海と湊には、“外から見えない家庭の事情”みたいなものがあります。七海は実はテレビにも出ている有名なお父さんが、本当のお父さんじゃなかったり、湊のうちはおばあちゃんと幼い弟と3人暮らしだったり。ふたりとも学校ではうまくやっているし、七海はなんでもできる子で恵まれているみたいに見えるけど、そう見えることと本当の事実……真実は違う。「問題になっている子」だけじゃなく、どの子にもその子の“真実”はあるんじゃないかと思いました。
律希だけ、あんまりないんですよ。親の方針で中学生まではスマホを持たせてもらってなかったというのがちょっと珍しいくらいで。だんだん“どうも自分は表面的にしか物事を見られていないんじゃないか”ということにぶち当たっていきます。
――なぜ、あんな幼い子があんな時間に一人で外にいて、泣きもせず、自分たちに口もきこうとしなかったのだろう。なぜ、警察を拒んだのだろう。もしかすると少女も親から虐待を受けていたのではないだろうか……という思いが3人の頭をよぎります。
「たしかめてみない?」と行動を起こしたのは七海です。「たしかめるって」「どうやって?」と聞き返す律希に、「探すしかないと思う」と。3人は湊がありす親子を見かけたというコンビニに張り込んで……。彼らの行動は基本的には単純です。その後も、手がかりはないし電話も通じない、それなら行くっきゃない、という動物的な感覚で彼らは動いていくんだと思います。
書きながら気づき、それを追いかけてまた書く
――いとうさんは書く前にプロット(筋立て)を作りますか。
作らないんです。私の場合、先に筋を立てて形を決めてしまうと、書くのは楽だけど、その形に沿ってしまって、全然自分が面白くないんです。作品も形は整っているけれどつまらないものにしかならなくて、自分自身の発見がない。書くことで発見や気づきが生まれるのが、小説を書く面白さだと思うので。
冒頭から順番に書いていきますが、途中で「あ、そうか、この子にはこんな背景がある子なんだ」と気づき、「そうすると出だしが違っちゃっているな」とまた初めに戻って書き直す。それを何度も繰り返すという、とっても面倒くさいやり方で書いています。
たとえば湊は、最初から弟がいる設定にしていたわけじゃなくて。途中でやっぱり弟がいるんだ、その場面を出さなきゃと、前に戻って書き直していきます。筋は決めずに、書きながら気づき、それを追いかけながらまた書いていくのです。
――湊の弟の凪(なぎ)が出てくると、場面がはつらつとしますね。お兄ちゃんやおばあちゃんに愛された子として、ありすへの態度が自然に描かれているように感じます。
そうかもしれませんね。湊には凪がいて、凪には湊がいる。だから湊はこんなふうに振る舞うのだ、ということが書きながらだんだんわかってくるんでしょうね。自分で書いているのに変な言い方ですけれど。
子どもでも大人でもない高校生
――冬にありすを警察に抱えていった後悔が、3人を「大人を頼れない」という思いにさせます。「大人だったら、もっとうまくやれるんじゃなくて、たぶん、こーゆーことに首突っ込まないんじゃね?」という湊の言葉もあります。
読んだ方に「目を背けちゃいけない」とか決してそんなことを訴えたいわけではなくて……。ただ、私は、16歳の彼らの目の前に、どうしても気になる子がいて、「自分たちがあのとき間違った行動をしちゃったのかもしれない」「もしかしたら不幸にしてしまったかもしれない。ヤバい」と思ったときにどうするだろうという答えを知りたかった。だから私も書きながらすごく迷いました。ある意味、危ないことをしているんだけど、彼らには彼らの行動の理由がある。でも……「どうするの?」と思いながら書いていきました。
いい子でいたくて苦しかった
――いとうさん自身のことを少し教えてください。いとうさんの作品は、登場人物の会話のテンポがよく、読みやすいですが、何か創作の土台になっている経験があるのでしょうか。たとえば演劇の経験があるとか……?
子どもの頃からごっこ遊びは大好きでした。お人形ごっこでもなりきるほうで、いじめたりいじめられたり。困ったことがあるとすぐ気絶しちゃうんだけど(笑)。もともと、だれかの気持ちになったり「この子だったらどうするだろう」と考えたりするのは好きだったのでしょうね。
演劇の部活もやってみたかったんですけど、小学3年生からはじめた剣道が意外にも「上手だ」とほめられたために、やめられなくなってしまって。先輩も怖くて、結局好きじゃないのに中学も高校も剣道をやめられない……。そんな中高時代でした。だから「嫌だな」「すてきな生き方がしたい」という心の内を日記に書いてストレス発散していました。
私は「いい子になりたい」というか、大人の期待や目線からはみ出せなかったです。親を悲しませたくないとか、怒られたくないとか、けっこう大人の目を気にする子どもだったので。自分で自分を苦しくしていたのだと思います。
――書くことをはじめたのはいつからですか。
古い記憶はテープ起こしです。テレビは1時間までと決められていたし、うちにあったテレビは今みたいな録画機能もなかったので、大好きなアニメ「ベルサイユのばら」をテープレコーダーに録音してテープ起こししていたんですよ(笑)。せりふを書き起こすと何度でも楽しめるし、脳内で画面もよみがえるので「大好きなアニメが私のものになった!」と。根気強くテープ起こしをするうちに、知らず知らずにせりふのリズムが身についたかなぁ……という気はちょっとします。
短大卒業後、編集プロダクションに入って約10年働き、30歳ごろフリーランスになりました。作家になりたくて30代半ばから同人誌「季節風」に投稿するようになり、はじめて掲載された作品が『糸子の体重計』。2012年刊行されデビュー作となりました。ずっと書く仕事をしています。
真実を探し追求するYA
――現在は幼年童話からYAまで幅広く手がけています。
幼年童話は子どもの頃苦しかったことや、言えなかったことを代弁するような気持ちで書くことが多いかも。一方、YAは「知りたい」という思いに支えられています。ふだん心に引っかかったニュースや思いつきをネタ帳に書き留め「どんな子を書きたいか」を考える。そして「この子はどういうふうに生きていくんだろう」「どうやって希望を見つけて、あきらめないで生きていけるんだろう」と探りながら書いていく……。「知りたい」を追求できるのが私にとってのYAです。書くのに時間がかかりますが、人物の背景や生き方を書き込めるのが面白いです。
――今作の児童虐待やネグレクト(育児放棄)は重いテーマです。“子どもが子どもを救えるのか”も考えさせられます。
昔ながらの児童文学でも「一緒に家出する」「旅をする」とかの描かれ方はありますよね。“子どもが子どもを救えるのか”で言うなら、私は「救える」と思っているんです。もちろん、不可能なこともあります。でもありえないことじゃない。根本的な解決がたとえできなくても、どこかでその子の心の支えになり、生を終わらせず明日につなげる存在になりうる、という意味では救えていることになるんじゃないか……と思っています。
――最後に、タイトルについて教えてください。『真実の口』にはどのような思いがあるのでしょうか。
タイトルは書きはじめてすぐ決まる場合と、ギリギリまで決まらない場合、大体どちらかなのですが、今作はすぐ決まりました。
イタリア・ローマの教会外壁にある石の彫刻「真実の口」には、その彫刻の口に手を入れると偽りの心がある者は手が抜けなくなるという伝説があります。映画『ローマの休日』に登場するシーンは有名ですが、私はもし伝説が本当なら、全員手が抜けなくなるんじゃないかと思って。心に何も隠してない人なんていないと思ったのです。
真実か偽りかは、視点や立場で何通りもあります。でもやっぱり“真実を見ようとすること”が大事なんじゃないかと。本作の高校生、七海、湊、律希は、一所懸命“真実”を見ようとしました。それが周囲を動かすことにつながり、それぞれも変化があったことを、読んで感じてもらえたら……と思います。
【特集「今めぐりたい児童文学の世界」の記事より】
斉藤倫さん「新月の子どもたち」インタビュー 「わからない」って前向きなこと 恐れずに受けとめて