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表記を操り、描く世界 文字の持つ根源的な力とは 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年9月〉

絵・黒田潔

 日本語には不思議なところがある。自分たちは三種類の表記を操る。たとえば誰かが将来への不安に押し潰されて、周囲に「私の精神が崩壊する」と文章で訴えたとする。が、そのままでは切実には捉えられないかもしれない。しかし同じ内容が「私のせいしんがほうかいする」と書かれていれば、やや不穏さを感受しうる。さらに「私ノせいしんがほうかいスル」とあるならば多分に不安になるだろう。これはどういうことなのか。そして日本語にかかわらず、文字の持つ根源的な力は何か。

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 今村夏子の「七月三十一日晴れ」(「新潮」十月号)は漁港の老舗ホテルに勤める五十代半ばのベテラン女性従業員が主人公のはずなのだが、その題名に注目したい。ここにあるのは日付であり、何年の、とは限定されていない。すると、この日付は主人公を別な七月三十一日にも運んで、そこでの彼女はまだ二十代前半の新米従業員である。現在の時間の中に過去がするっと舞い込むのだが、この過去はあっという間に現在形のパワーを有し出す。そして数十年の時間の幅というのを俯瞰(ふかん)して、いま現在二十代前半である新人との交流、をあっさり成立させてしまう。起承転結の結構といい素晴らしい。

 ヨン・フォッセ『朝と夕』(伊達朱実訳、国書刊行会)はしかし一人の人間のその“生”の内側にあるであろう数十年間を、意図して描かない。ある人間が生まれる直前直後、そしてこの地上にとどまる限界のその先(とは死である)の直後、この二点にだけ焦点を絞った構成を採る。にもかかわらず一人の人間を産んだ親たち、さらには姉やその他の親族、土地の住人たちまでもが鮮やかに“生”を浮かび上がらせている。それを成し遂げているのは、あるべき箇所に句点のない特徴的な文体であって、すなわち「文章の終わった印」の投じられない作品世界の内部では、誕生のその前も逝去のその後も“物語”に見事につながれるのだ。

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 一方で「私のせいしんがほうかいする」的な不穏な様相を日本語なき世界で結実させたのがアメリカ人の、すなわち英語圏の作家のシルヴィア・プラスであり、彼女の『ベル・ジャー』(小澤身和子訳、晶文社)である。語り手である十九歳の女性が、世俗的な価値観に瞬発的に抗(あらが)う気概を持っているのに、同時に極端に受け身で、その種の“危うさ”が全篇(ぜんぺん)をまず貫いている。そしてヒロインは中盤以降にまさに心の働きというのを崩壊させてしまうのだけれども、それは自転車のタイヤがするすると半ば快適にスリップするようにいつの間にか生じているという描出の様が、強烈な磁力を放っている。

 が、もしもシルヴィア・プラスが日本語のネイティブだったとしたら、この書き手はどんなふうに心の痛みに向き合って、それを文学的に表現しようとしただろうか? この手の仮定の問いには解というのはないはずだが、詩人であれば母国語の表記システムそのものに囚(とら)われただろうとは推測しうる。日本の詩人の永方佑樹(ながえゆうき)は「字滑り」(「文学界」十月号)でまさにここをこそ小説の主題とした。漢字ひらがなカタカナの表記というのは目から感じるものだし、人間の感覚を刺激しているのだ、つまり最終的には五感を、とのポイントを衝(つ)いて、ある表記に人びとの発話や筆記が偏るという異様な現象が発生してしまっている国家を設定した。字滑りや震言地といった語はこの作品の“奇想”の発生源となっているが、そこから真の幻想譚(たん)へ、思弁の小説へ飛躍しようとする意思なり熱源なりは、たぶん著者が格闘する日本語そのものに宿っている。

 すると日本語というのは特殊な言葉であり、いわゆる欧米がイメージする「言語の完全性」のようなものからは程遠い、ともなる。他方、上田岳弘の『多頭獣の話』(講談社)は「完璧な文章は今はない、以前はあった」という神話を刻みつけることで物語を発進させている。これは村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭から発生した、いわば亜種の生物もどきの神話なのだが、そもそも完璧ではない(かもしれない)言語が日本語だとは指摘されずにこの小説は進行する。この要点を無視することで、むしろ作者は「言語はそもそも宗教的である」との実相を掘り下げている。失踪したに等しいユーチューバーとIT企業の役員との交流譚だが、ここにはデジタル時代の言語とは何か、また、デジタル時代の宗教家とその挫折とは、との魅力的な問いがちりばめられている。=朝日新聞2024年9月27日掲載