仕事で遠方に出かけると、何とか時間を作って地元のスーパーに駆け込む。その地ならではの食材を、自分用の土産にするためだ。
そんな中で幾度も買っているものに、秋田県の郷土料理・きりたんぽの真空パックがある。とはいえ、袋に書かれたレシピに従って鍋にするものの、毎回、首をひねりながらそれをつつくのが常だった。なぜなら、私は秋田県でこれを食べたことがない。関西人の私が作った鍋が正しい味か、判断がつかないためだ。
かくして東北に出かけるたび、またもきりたんぽを買い、鍋作りへの再挑戦を繰り返す。おかげで家族には、「この人はきりたんぽ鍋が好き」と勘違いされていた。
子どもの頃にお気に入りだった一冊に、世界のお菓子の子ども向けレシピ集があった。今ほど情報化が進んでいない、昭和末期。未知の菓子が多く収録されていたが、作り手が料理の腕もつたない小学生だったこともあり、挑戦しても本当にこれで正しいのか?と疑うことばかりだった。答え合わせをしようにも、身近では売られていない菓子が多く、結局、正誤が分からぬまま、その本はいつしかどこかに行ってしまった。
それに比べれば、きりたんぽはまだ味の確かめようがある。ただ簡単に白黒をつけるのもどことなく惜しく感じていた矢先、秋田で本場の味を知る機会に恵まれた。豊かな山の幸をふんだんに取り入れたそれは我が家の鍋に比べると格段に豪華で、しかし基本的な味はすでに馴染(なじ)んだものだった。その事実に納得し、これで自信を持って作ることができると嬉(うれ)しくなるとともに、謎が解けてしまったことに一抹の寂しさも覚えた。
何かを日常とするとは、非日常のときめきを手放すことと同義だ。きっと次から、私はさしたる気負いもなくきりたんぽ鍋を作るだろう。それでいいと分かっているが、しかしかつての首をひねりながらの食事が過去のものとなることが、やはりちょっと残念でもある。=朝日新聞2024年10月23日掲載