面白い小説は変なことを考えさせる。読書中についつい内容とは離れた事柄を思考してしまうということだ。竹中優子「ダンス」(「新潮」十一月号)は雑誌の紹介文には会社員小説とある。にもかかわらず自分は、現代の日本人は海外移民に「なる」というイメージがたぶん上手には持ちづらいのだと考えている。以前はハワイ移民もブラジル移民も満洲移民もいた、それが絶えた、だからこそグローバルな移民問題を「なる」側に立っては想像しにくい。だとしたら、極めて現代的にこう想定したらどうか? それはアプリのように他の国家にインストールされることを指すのだ、と。その知らない環境にどのように馴染(なじ)み、実装されたプログラムを走らせられるのか?
◇
主人公が会社に入り、そこに馴染むか馴染まないかを問うのが「ダンス」という中篇(ちゅうへん)小説だから自分はそんな妙なことを考えたわけだが、これを会社員小説とは読まずに移民小説と読んだ、または誤読した理由は複数ある。主人公の造形が興味深すぎるというのがある。つねに内面では暴走しているのに(外づらは)自制し切っている。これを現代人の特性と考えるか、むしろ移民的な態度だと見做(みな)すか? 前者だとすれば、現代人というのは「所属するコミュニティー内で移民であることを強いられている」とも言える。しかもこの小説は、気がついたら三年余が経過し、主人公を退職させている。さらに十数年があっという間に経過して、人生の歳月を“層”として描いている。移民がその国に根づくか、との問題を、まるで「現代人は自分自身の人生に根づけるか?」と読み替えている。もちろん自分のこうした理解も誤読に近いのだが、その種の読みを促進させる力が痛快だ。
ところでアプリの譬喩(ひゆ)に正しさを見出(みいだ)すことも可能で、これは人工知能の問題へ直結する。AIというのは人間の知能のように成長させられている。現在の課題はそのAIが「人間社会に馴染むのか?」だ。つまりAIとは全地球規模の移民なのである。円城塔『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』(文芸春秋)は、馴染みすぎて悟りに達するAIもあったと発想する。機械のブッダの出現である。その誕生を、本当は二〇二〇年に開催されるはずだったから「TOKYO2020」の愛称だったのに翌二一年にオリンピックが開催された年、に設定したのは、これを一種の“バグ”と見たからだと自分は勝手に評する。物語は「そこに本があるとして、それをデコード(復元すなわち読解)するのは読者でしかない」との読書論まで射程に含めていて、ひたすら知的に面白い。
AIの場合は筐体(きょうたい)とそれ以外のプログラムの関係も問われる。鳥山まこと「アウトライン」(「群像」十一月号)は建材会社を舞台に、ここでも「職場に馴染めない私」の困難を訴えつつ、テナントが入居前の空洞の構造体=スケルトンビルという筐体を出す。私はスケルトンビルと同じだと認識する彼女は、職場に業務効率改善のためのAIが導入されるや、突如として会議中、擬似(ぎじ)AI化した自分(なるキャラクター)を駆動させる。その爽快感とそして快さに対する疑念と。建築とAIと人類の垣根を越えて感得される真の“空洞性”は、人間はもはや「いろいろ考える存在」から離れたと告げるか。
◇
しかし飛躍してはならない、と教えるのはタイのラオス難民キャンプからカナダに家族で移民したスーヴァンカム・タマヴォンサの短篇「ランディ・トラヴィス」(岸本佐知子訳、「MONKEY」三十四号)で、ここでは語り手の母親がアメリカのカントリー歌手に惚(ほ)れこみ、その愛を爆発させて、父親もその無謀な愛をサポートして、しかし「馴染む」地平に至るとか至らないとかの問題の背後にはちゃんと父祖の地ラオスが存在している、ということをユーモアを前景化させて描き切った神業がある。結局は故郷という因子と家族という最小ユニットから、人間はその「人間らしさ」を滲(にじ)ませつづけるのかもね、と希望的に語られる。
が、AIにはならないとして人類はそもそも希望的なのか? 誰かが自分史を語ったり、または周囲の事柄(そこには故郷も含まれる)を物語る時にどれだけの不穏さを噴出させるかの実例の呈示(ていじ)が待川匙「光のそこで白くねむる」(「文芸」冬号)だった。話の全容が摑(つか)めず、居心地の悪さが倍増しつづける、という読書体験をいつしか爽快さに変えてしまっている。これも驚異の作品である。=朝日新聞2024年10月25日掲載