1. HOME
  2. コラム
  3. 文芸時評
  4. 記憶との再会 平行世界を生きる自分たち 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年11月〉

記憶との再会 平行世界を生きる自分たち 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年11月〉

絵・黒田潔

 ある程度の長さを生きれば誰しも経験しうることだと自分は思うが、家族や親類が久々に集ったとする。同級生たちが何年ぶり何十年かぶりに集合したとする。そこで一つの出来事が話題になる。詳細に憶(おぼ)えている人間がいて、そんなことあったっけと首を傾(かし)げる者もいる。また少しは憶えているという者同士が同じ事件にまるっきり逆の印象を抱いており、どうしてなのかを探ると「誰がいつ何を(具体的にどういう行為を)誰にしたか」の憶えられ方に齟齬(そご)があったりする。これを、人の記憶の不確かさ、とまとめてよいか? 他の捉え方もあるのではないか?

    ◇

 小池水音「あなたの名」(「新潮」十二月号)の語り手は七十四歳の女性で、癌(がん)で余命五カ月と宣告されている。宣告と同時期に娘の妊娠が判明し、しかし延命治療は受けないとの決断が「会えない孫」のビジョンを浮上させる。自分はきっとこの世にいない。そこで娘のほうが求めるのは、母親の記憶のデータ化、すなわち記録化でありAIによる記録からの母の分身の創造である。この娘というのは死んだ夫の連れ子で、血縁を超えた切実な絆で結ばれており、だからこそ娘の要求は高純度の愛情から出ている。しかし「記憶をデジタルの記録に変えられるのか」との問いがまずあり、次いで「AIに記憶を受け渡したら当人は空っぽにならないか」の恐怖および(危惧のままの)現実が現出し、けれども目を瞠(みは)らされるのはその先だ。一人の人間が表面的に空っぽになった時にこそ、抑えつけてきた記憶との、つまり過去との再会が叶(かな)うのではないか? この小説はそれを劇甚(げきじん)なる痛みも伴わせながら問い、結果として“現在”の時間帯に過去を生き直させる。

 人生の終焉(しゅうえん)に臨んで「記録」されていた過去を再生させるとの試みは小川洋子『耳に棲(す)むもの』(講談社)にもある。こちらではその記録の持ち主はすでに骨となっている。が、稀(まれ)に見る誠実な補聴器販売員であったこの人物は、自身の生をまるごと「世界の補聴器」に変えていた。見失われがちな出来事、聞かれようともしない旋律のような他者の人生の一端一端を耳の奥にしまい込んで、それらを死後に取り出される“四つの骨片”に換えた。変容はこの小説の要点で、涙は音符になるし星座も音楽に変わる。本書は(他者との)真の親密さとは何かを伝える。

    ◇

 ところで記憶とは「生きてきたリアルな軌跡」とそのまま重なるわけではない。小説家は虚構の世界を構築して、その物語の断片をも人生の内側に抱え込む。このことが描かれるのにも近いのが水原涼「筏(いかだ)までの距離」(「すばる」十二月号)で、本作には小説家や小説を書いている古書店員、現在は書いていないが以前は書いていた語り手などの出る三つの短篇(たんぺん)が孕(はら)まれている。ここには確乎(かっこ)としたフィクションが生じる以前の、むしろ“小説運動体”と呼びたい何事かがある。そして書かれていないはずの小説が人物を駆動もするのだ。

 生と死は土地にもあり、国家にもある。人間の目を通せばだけれども。ロシア侵攻の数年前のウクライナのドンバス地方で、誰が、何が、どのように生きていたかの物語が、アンドレイ・クルコフ『灰色のミツバチ』(沼野恭子訳、左右社)の序盤であると言える。人びとの記憶は異なるし記録もその異なった記憶から束ねられるから齟齬する、と自分も頭では理解していたつもりだが、この物語は自分を含んだ読者をもっと旅させる。主人公の養蜂家がドンバスを出、クリミアまでミツバチを運ぶからだ。丁寧に世話をしなければならない巣箱を六個積んだトレーラーが移動し、どこかに腰を落ち着けるたびに世界の風景が二分法すなわち白黒以外のあわいの色彩を得る。ここではミツバチの羽音が、砲撃音を鎮める力を宿すかに感じられる。

 冒頭の問いに戻れば、人間の記憶は年老いると異なり出すのか? もしかしたら自分たちは事実として複数の、誤差を孕んだ平行世界を生きているのではないのか? こう考えるほうが建設的だと訴えるに等しいのは星野智幸『ひとでなし』(文芸春秋)だった。小五の時に架空の日記をつける習慣を得た主人公が、実人生の“反転”をそこに記録するたびに世界を増殖させる。しかも本書では、虚構の複数の世界はほぼ平然と“現実”に混じるのだ。その侵蝕(しんしょく)はむしろ作品自体によって歓迎されている。破壊的にして建設的な大作。「排除することに希望はない」とこの著者の人生は言い切らんとしている。=朝日新聞2024年11月29日掲載