『論語と算盤(そろばん)』は実業家、渋沢栄一翁の口述をまとめた本だ。初版は大正時代。このタイトルに当時の人たちは驚いたであろう。
『論語』といえば当時は聖なる書、それに対して商売は卑賤(ひせん)の業とされていた時代だ。このふたつを併記した書物は、現代でいえば『新約聖書とマーケティング戦略』とか『般若心経でカネもうけ』のようなタイトルの本を出すようなものだ。批判もあったはずだ。
しかし、渋沢翁は「ソロバンは『論語』によってできている」という。『論語』はビジネスの素(もと)であるというのだ。それが机上の空論でないことは、翁が日本で初めて民間銀行を作り、株式会社の知識も普及させた実業家で、福祉・教育にも多大な貢献をしたことからもわかる。
そう、本書の最大の特徴は役に立つということだ。だからといってすぐに使えるという意味ではない。
学びには二種類ある。ひとつは現実の社会に自己を最適化していく実用的な学び。もうひとつは大きな視点を持ち、根本を固めていく学びである。『論語』は「本(もと)立ちて道生ず」と説く。本質の学びだ。
本質を説いてくれる文章は読んでいて気持ちがいい。しかも、翁のそれは私たちを否定しない。豊かさを作り上げるためには欲望が必要であるという。しかし、欲望は暴走しやすい。が、ブレーキをかければ力が弱まる。堰(せ)き止めるのではなく、正しい方向に流す、その方法を教える。
それは平等・良心・思いやりを根本に、社会も個人も豊かになる道である。精神が潑剌(はつらつ)として、尽きない喜びを感じて事業を進める原動力となる道だ。
大企業による不正行為も目立つ。が、それをしている人も私利私欲でしているのではないであろう。心の中の竜を腐らせないためにも本書を薦める。
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守屋淳訳。ちくま新書・902円。10年2月刊。56刷65万2千部。紙幣デザインの変更が発表された19年4月から新紙幣発行の今年7月までに46万6千部の重版。「現代語訳で読みやすいので、部下やお子さんに贈ったという声も」と担当者。=朝日新聞2024年12月14日掲載